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私だけの、そして、あなただけの「安部公房」

ヤマザキマリさんの『壁とともに生きる わたしと「安部公房」』を読んだ。
取り上げられているのは「砂の女」、「壁」、「飢餓同盟」、「けものたちは故郷をめざす」、「他人の顔」、「方舟さくら丸」。
この6つの作品を中心に、安部公房の経歴と、ご自身の経験を照らし合わせながら語られている。

ヤマザキマリさんは、主にイタリアでの疎外感から安部公房に傾倒したと書かれている。
僕は、学生時代の神経症、対人恐怖症から、安部公房にのめり込んでいった。
恐らくそれぞれの経験から、安部公房に飲み込まれていった方は多いだろう。
つまり、扱われているテーマはそれだけ普遍的であり、誰にでも、どこにでも当てはまるものなのだ。

好きな作家について語り合うのは楽しいものだ。
村上春樹ファン、いわゆるハルキストと言われる人たちの結束は固そうだ。
毎回、ノーペル文学賞の発表の時期になると、羨ましいくらいに盛り上がっておられる。
僕も、できることならば安部公房にノーベル賞をとって欲しかった。
しかし、安部公房ファンというのは、そうして群れるのが苦手な人たち、あえて群れに背を向ける人たちの「集まり」なのだ。

だから、
「安部公房のファンです」
と言われても、
「そうですか」と返したきり、会話は広がらない。
それぞれが、自分だけの「安部公房」を抱えている。

安部公房の作品は、決して読んで楽しいものではない。
読後、青空を見上げて、ぷふぁ〜となるものでもない。

しかし、真っ直ぐ歩いているつもりなのに、何だか歩き辛いなと思った時、自分が他人のように感じた時、そんな時に、安部公房は見せてくれる。
ほら、道は真っ直ぐじゃない、曲がりくねって、迷路のようで、出口なんかないかもしれないよ。
ほら、壁があるじゃないがか、どっちが外か、どっちが内か、そんなことはわからないよ。

別に知らなくても、生きていける。
知らない方が、幸せなのかもしれない。
だから、安部公房は、こうしなさいなんて言わない。
この先が地獄かどうかなんて、進んだ者にしかわからない。

僕もあらためて、安部公房の作品を読みなおしてみようと思い、近くのTSUTAYAに行ってみた。
実家には揃っているが、もう30年から40年前の本だ。
新しく買って、読んだらブックオフにでも持っていけばいいと考えていた。

ところが、なんと、そのTSUTAYAには安部公房の本が置いていない。
単行本はおろか、文庫本もない。
もう、安部公房なんて、誰も読まないのか。
当然、売れない本は本屋に置かれないし、いずれ絶版になる。
芸術といえども、経済の手から逃れることはできないと、あらためて痛感する。

安部公房の作品は電子書籍にもなっていないようなので、仕方なく実家から持ってきたのが、見出し画像だ。
箱入の本なんて、久しぶりに手にした。
それに、昔の活字の小さいこと。

でも、頑張ろう。
この歳で迷宮に迷い込んで、戻って来られるだろうか。



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