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『余白の気まぐれ』

出張続きだった。
こんなときはいつも同じだ。
最初は、いつもと違う日常に少しわくわくする。
新しい仕事相手との会話も新鮮だ。
また、当たり外れはあるとはいえ、どんなホテルなのか。
食事はどこにしよう。
ホテルの中で手軽に済ませるか。
その土地の郷土料理のようなものを求めて足を伸ばすか。
家族を離れて、少し羽目を外したくもなる。
ただ、それも1週間までだ。
それを過ぎると、やはり疲れがたまってくる。
枕が違うと結局は睡眠の質も変わってくるのだろうか。

最後の仕事を終えて、明日はようやく我が家に帰れる。
まあ、我が家で歓迎されるかどうかはわからないが。
外食をする気分にもなれずに、コンビニで弁当を買って帰り、早々にベッドに入った。
しかし、とりあえず与えられた仕事をやり切ったという満足感だろうか。
それとも、明日から自分のベッドで眠れるという安心感からだろうか。
なかなか寝付けなかった。
幸い、明日は何時までに戻らなれければならないということはない。
シーズンでもないので、列車の席も当日取ることにしている。
もう一度、服を着替えて、ホテルを出た。
夜気も、その土地土地によって違う。
空気に混じるほのかな香りであったり、温度や湿度、また風に混じる微かな訛り。

それは、ホテルから10分ほど歩いたところにある小さな店だった。
10分とは言え、あちこち曲がりながら歩いたので、直線距離でどうなのかはわからない。
カウンターと、奥に4人がけのテーブルがふたつほどある。
そのカウンターでビールを頼む。
普段はひとりで飲みに出ることはない。
仕事とはいえ、旅先では人は少し大胆になれるのだろう。

自分が声をかけられているとは思わなかった。
しかし、どう見てもその声はこちらに向かっている。
男はカウンターのいちばん奥の席から、こちらを見てにやにやしていた。
表情だけで、「わたしですか」と問いかけてみる。
すると、男は満足そうに頷いて、隣の椅子まで移動してきた。
他に客はいない。
「マスター、ボールペン貸してよ」
男は、白いノック式のボールペンを受けとると、ありがとうと、紙はこれを使うよ、と両方の意味を込めて、カウンターにある紙ナプキンを少し大袈裟に取り上げた。
男は、40代後半か50代前半、少し年上のようだ。
普段着ではあるようだが、それほど崩れてはいない。
近くの自営業者だろうか。
いずれ、このような店は、そんな常連客でもっているのだろう。

「ほら」
と男は、紙ナプキンをこちらに寄せた。
見ると、そこには、

「    」

と書かれている。
できればひとりでゆっくり飲みたかったこちらは、少しいらいらしてもいた。
「何ですか、これ」
「余白、ですよ」
男は、余白のところで少し間をとった。
こちらがその漢字を思い浮かべるのを待っているかのように。
「これだけだと、ただの紙、ただの紙ナプキンですよね」
男はこちらの顔を見るが、何と返答していいのかわからない。
一体全体、何の話だ。
何かの勧誘なのか。
マスターは聞いているのかいないのか、カウンター奥のスツールに腰掛けて新聞を広げている。
「でもこうすることによって、ここには余白が生まれる。そして」
男は、紙ナプキンの、「    」をボールペンの先でつついた。
「そして、あなたは、この余白が気になって仕方がない。ここに何が書かれるのか。いや、自分で何かを書き入れたい。人は余白を放置できないのです。でもね」と言いながら、男は紙ナプキンに書き足した。

「   ?」「   !」

「こうなると、あなたはもう2人の会話の蚊帳の外だ」
立ち去るべきだろうか。
どうせ知らない街だ。
この店にも、2度と来ることはない。
さっさと金を払って、こんな男は無視してもどうってことはないだろう。
そんな気持ちを知ってか知らずか、男は続けた。
「さしづめあなたの気持ちはこんなものだろうか」

「…………」

「あはははは、心配しなくても大丈夫ですよ。余白のいたずら。余白の気まぐれ。あなたや私の人生のようにね」

店を出て、角を曲がろうとして、振り向いた。
場所を覚えておかなくては。
次この土地に来た時に、うっかりまた入ってしまわないようにしないと。
しかし、その時には、店の明かりは消えてた。

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