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『自分が増える』

昼休み、社食で日替わり定食を食べていた時に肩を叩かれた。
その日のメニューは、日替わり定食の中でも一番お気に入りのアジフライ定食だった。
普通は知っている顔を見つけて、同じテーブルに座るのだが、このメニューの時だけは違う。
角の日当たりが悪く特に人気のないテーブルについて、1人でゆっくりとアジフライを味わうのだ。
そのアジフライに辛子をぬり、醤油をさっとかけて、箸で掴み上げた時だった。
ちなみに私は、アジフライには醤油派だ。
一口目をがぶっと行きかけたところで、肩を叩かれた。
相手を見て、同期であることがわかると、思わず怒りが顔に出てしまう。
アジフライくらい、ゆっくり食べさせてくれ。
だが、相手は、そんなことにを気にする風もなく話しかける。
しかも、声を顰めて。
「昨日、連れていた女の子は誰だよ」
「は」
「いやいや」と更に声を落として、
「あそこの駅前の店から出てきただろ」
「昨日は、と言うか昨日も仕事が終わってまっすぐ帰ったさ。まあ、若い子を連れて歩きたいのは山々だけどね」
「うーん、そっくりだったんだけどなあ。まあ、確かにうちの給料じゃ、そんな余裕もないか」
まだ納得できてはいないようだが、同僚はうんうんと頷きながら立ち去った。

着替えを終えて、リビングのソファに腰を下ろしたところで、妻が帰宅した。
結婚して5年になるが、妻はそのまま元の会社で働き続けている。
残業のある日は、私よりも遅くなることもある。
妻は、上がってくるなり、
「あなた、大丈夫なの」
「どうした」
「早退したんでしょ」
「さっき帰ったところだよ」
「嘘」
妻によると、帰り立ち寄ったスーパーで近所の奥さんと会ったらしい。
その奥さんが、昼過ぎに駅に用事で向かっている時に、駅から出てきた私を見かけたと言うのだ。
「ご主人、すごくげっそりした様子で、具合が悪いのかなと、声もかけられなかったんだけど」
それを聞いた妻は、買い物も早々に駆け戻ったらしい。
「でも、それは僕じゃないよ、きっと、いや絶対に」
「そのようね。びっくりしたわ」
「誰か、似た人が近くにいるのかもな」

その日を皮切りに、私の目撃譚は相次いだ。
あそこの居酒屋にいたでしょうとか、結構な年の女性とホテル街に消えて行ったとか、「昨夜、僕も同じカラオケに行ってたんでいよ」などと言うものまで。
それだけなら、私に似た人がいて、その人物の行動範囲がたまたま私の、あるいは私の知り合いの行動範囲と重なっていたとして、納得できないこともない。
そのようなこともあるだろうと言うわけだ。
そして、その私に似た人は、私よりもどうやら活動的らしい。
しかし、こんなことがあった。
ある女子社員が、
「昨日、タワービルのレストランにおられましたよね。ご一緒されていた方、奥さんですか、とっともお綺麗で」
すると、後輩が、
「あれ、おかしいな。僕があそこの居酒屋から出てきた時に、先輩を見かけたんですよ。ちょうど次の店に行くところだったんで、声をかけようとしたら、タクシーに乗って行かれちゃって。それが、ちょうどその時間なんだけど」
おかしいなはこっちのセリフだ。

世の中には、自分にそっくりな人が3人はいると聞く。
そのうちの1人か2人が、すぐ近くにいることも、あり得ることではある。
ドッペルゲンガーという言葉を思い出したが、あんなのは迷信だ。
私にそっくりな彼らが、悪いことでもしでかさない限り、ほっておくしかない。
「見ました」「見かけました」と言われるのが、億劫ではあるが。
仮に、その私にそっくりな誰かが罪を犯したとしても、こちらとしては何の責任もない。
それに、一度は疑いをかけられたとしても、今ではDNA鑑定などですぐに別人であることはわかるだろう。
私にそっくりな彼らが女性といるところを、もし妻りが見かけたとしても、こちらのアリバイはすぐに証明できるはずだ。
どうせ、会社と自宅の最短距離を往復する毎日だ。
いずれにせよ、今の状況に対して、こちらでできることは何もない。

しかし、これにはまいった。
私が取引先に、預けてあった契約書をいただきに上がりたいと連絡した時だ。
先方の担当者は笑いながら、
「昨日、お渡ししたじゃないですか。いやいや、お気になさらずに。お忙しいでしょうから、わからなくなることもありますよね」
念の為に、上司に確認してみる。
「あれね、間違いなく僕の印鑑を押して回しておいたよ。それにしても、難しい契約をよくまとめたね」
笑って頭を下げるのが精一杯だった。
幽体離脱。
いや、そんな馬鹿な。
いよいよ本物のドッペルゲンガーか。
もしかして、本当にこの私が契約書をもらいに行ったのに、忘れてしまっているのだろうか。
まさか、若年性アルツハイマーとか。
今日の昼は何を食べた。
そうだ、今日も、大好物のアジフライ定食だ。
念の為に、社食のある階にまでかけ上がる。
間違いない。
表に立てかけられたポードには、手書きで、
「本日の日替わり定食 アジフライ定食 味噌汁つき」
と書かれている。

夕食を終えて、テレビを見ながら、妻に話すべきか考えていた時だ。
珍しく固定電話が鳴った。
今どき固定電話にかけてくるのは、実家の両親か、あとはセールスばかりだ。
他は、まず個人の携帯にかけてくる。
妻が表示された番号を見て、首を傾げながら受話器をとった。
妻は、時折、「はい」「そうです」と挟みながら応対している。
どうやらセールスではなさそうだ。
「免許証が内ポケットに、ですか」
そう言って、私の顔を見つめる。
わかりましたと電話を切った妻は、泣きそうな顔で言った。
「あなた、亡くなったらしいわよ」

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