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終戦記念日、僕は黙祷しない

明日8月15日は終戦記念日。
終戦記念日といってまず思い浮かぶのは、甲子園での黙祷だ。
というか、他に思い浮かぶことはない。

甲子園では8月15日の正午になると、試合を中断する。
そして、スタンドの観客も立ち上がり、選手、審判員とともに、1分間のサイレンに合わせて黙祷する。
僕も何度か、スタンドで黙祷したことがある。

この日、甲子園以外で黙祷をしているところはあるのだろうか。

政府が主催する戦没者追悼式では、正午に黙祷が実施される。
各自治体でも、同じようなイベントが行われているのかもしれない。

しかし、それ以外の場所で黙祷が行われているのを見たことがない。
各企業ではどうか。
少なくとも、僕が勤めていた会社では、そんなことはなかった。
正午に、仕事の手を止めて、全社員が黙祷をするような企業は、ゼロではないだろうが、少ないのではないだろうか。

路上で正午に立ちどまって黙祷している人も、僕は見たことがない。

終戦記念日とは、
「戦没者を追悼し平和を祈念する日」
と政府で定められている。

追悼や祈念を強制しても意味はない。
必ずしも、黙祷が必要だというわけでもない。

ただ、かつて、そんなに遠くない過去に、この国が愚かな戦争をした、その事実を認識する日としては、意味があるのだと思う。

幸いに、僕の親族の中で戦死者がいると聞いたことはない。
それでも、子供の頃には、父や祖母から、空襲の恐ろしさや、戦時中の苦労を聞かされた。
風呂で、父に軍歌を歌わされた記憶もある。
僕たちの世代は、そんな形で戦争を感じることのできた最後の世代ではないだろうか。
だからこそ、あえて「戦争を知らない子ども達」と歌うこともできた。

最近は、日本がアメリカを相手に戦争をしたということすら知らない若い人がいると聞く。
僕も娘に、父から聞いた話を伝えたことはない。
「耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び」などとモノマネをしても、元ネタすらわからない。
そんな時代に、こんな日があるというのは、決して意味のないことではない。
それは、追悼がどうとかということではない。
英霊や靖国がどうのという話ではない。
そんなことは政治家とお役人に任せておけばいい。
自分がいま生きている国が過去にしたことを知り、それは愚かな行為であり、悲劇であったと認識するということだ。

おそらくこれから、改憲の議論も活発になってくるのだろう。
ただ、
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
この一文だけは、残さなくてならないと思うのだ。
もちろん、こんな条文も、侵略を軍事作戦だとのうのうと言ってのける独裁者の前では、何の意味もなさないのではあるが。

隣の韓国では徴兵制が敷かれており、時々アイドルの入隊が話題になる。
それを、ファンはどのように見ているのだろうか。

僕たちの国では徴兵制はない。
自衛隊という職業があり、国はそこの人たちが守ってくれる。
みんなそう思っている。
まるで、ゴミは清掃業者が片付けてくれるというように。

それは、決して悪いことではない。
むしろ、多くの国がそうであるべき姿なのかもしれない。
これを平和と言わずして、何を平和というのか。

今の世界情勢のどこが平和なのかといわれるかもしれない。
むしろ、こんな世界情勢の中でも平和であるために国境はあるのではないのか。

しかし、こんな平和も、たかだか数十年の産物に過ぎないことは、知っておかなくてはならない。
決して保証されたものでも、約束されたものでもないということを。
シーソーの上でバランスをとるには、まずはここがシーソーだと知ることからだ。
これをこの先の数十年、あるいは数百年も続けていくために。

明日の正午、僕は黙祷はしない。
それでも、甲子園の球児とともに、せめてこの夢の舞台をいつまでも見られるように、思いを馳せたい。

それを無力というなら、無力こそ平和だ。

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