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『月に代わって』 # シロクマ文芸部

変わる時だと、今日こそ伝えようと思っていた。
いつまでもこのままではいけない。
人生には変わる時があるのだと。

戦いを終えて妻が帰ってきた。
どうみても派手なコスチュームからジャージに着替えると、ソファに身体を投げ込むようにして飛び込む。
うわぁーと、くたばりかけた猛獣のような声を出して。
その身体をマッサージするのが私の日課だ。
「あのさあ」
「なに?」
妻は顔をソファに押し付けたまま尋ねてくる。
私は次の言葉を必死に声にしようとするが出てこない。
言葉だけが音にならずに通り過ぎていく。
腰のあたりをゆっくり揉む。
この辺りにも、かなり贅肉はついてきた。
あまり強くすると、以前に起き上がれなくなったので注意が必要だ。
まあ、私の腕にもそれほど力が入らなくなってきているが。
かつての仲間も既に引退して孫と暮らしたり、施設に入ったりしている。
「あ、そうだ」
突然妻が振り向いた。
「マーズのところのお孫さん、大学にうかったらしいわよ。お祝いしなくちゃね」
そうなんだよ、みんなは。
幸か不幸か私たちには子供がいない。
壁にかかったままのタキシードが目に入る。
あれを最後に着たのはもういつのことだろう。
今、言わなければ。
私は敵にとどめを刺すように言葉を吐き出した。
「あのさ、そのセーラー服みたいなコスチュームはもう古いんじゃないかな。それと、月に代わってとかいう決めゼリフも。マーキュリーやジュピターも引退したんだし、君もそろそろ…」
いつの間にか妻はまたコスチュームに着替えている。
「続きは帰ってから聞くわ」
そう言うと、窓を開けた。
「さあ、月に代わってー!」
妻の姿が見えなくなると、ソファの髪の毛を拾った。
帰ったら、白髪を染めてやろう。
変わる時は、いつなのだろうか。


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