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『ワクチンあります』

幼い頃から病弱だった。
それはそれは、病気のオンパレード。1年のうち、起きて歩いている時間よりも、寝ている時間の方が長かった。

そもそも健康であった記憶がない。
幼稚園には結局ほとんど行けなかった。小学校、中学校も休みがちで、幼なじみと言えるような友だちもいない。
高校も何とか卒業して、地元の小さな金融機関に就職することができた。

そこでもあいかわらず病気の奴は見逃してくれなかった。
あらゆる病院を訪ね歩いたが何も変わらなかった。
次第に身体だけでなく、精神まで病むようになった。

仕事も上手くいかず、人間関係にも馴染めず、恋愛も当然上手くいかなかった。

こんな人生はいやだ。
この繰り返し襲いくる病気に打ち勝つには、この身体ごと始末するしかない。

海沿いの町を訪れた。
たった一度で間違いなくこの身体に終止符を打てそうな岸壁を探して彷徨い歩いた。

電柱に一枚のチラシが今にもはがれそうに風にはためいていた。
『あらゆる病に効くワクチンあります。
 これであなたの身体は病知らず』

それは古びた建物だった。
看板もペンキがはがれて、かろうじて「医院」と言う文字がよめた。
奥に明かりが見えたので曇ったガラスの扉を開けた。

患者はひとりもいなかった。
少し待っていると、年増の看護師が診察室のドアを開けて名前を呼んだ。

すぐに例のワクチンを打ってくれと頼んだ。
「どうしても?」
白髪頭の医者は度のきつそうなメガネ越しに尋ねてきた。
「どうしてもだ」
「後悔はしませんね?」
「何か副作用でも?」
逆に尋ねてみる。
「それはないのですが…健康だけの人生ですよ、つまらなくないですか?」
「望むところだ」

それからは病気は嘘のように身体から消えていった。
仕事も絶好調。いきなり昇格もした。
人間関係も上手く回り、遅ればせながら健康人生を謳歌していた。

ある日後輩の女子社員に食事に誘われた。
「先輩は恋人とかいらっしゃるんですか?」
何を言っているのか理解できなかった。
結局会話がかみ合うことのないまま彼女は帰っていった。少し怒っているようだった。

グーグルで「恋人とは」と、検索してみた。
内容が全く理解できない。
「恋人」と書いてみた。
「恋」とひと文字書いてみた。
何の感情も湧いてこない。
突然、胸の中に黒い大きな穴があいたような感覚に襲われた。

海沿いの町の病院を再び訪ねた。
事情を説明すると、医者は顔を見据え、にやりとして言った。
「だから言ったでしょう。病も時には必要なのですよ」









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