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本当に恐ろしいこと〜映画「関心領域」

内容は予想通り。
怖さはそれ以上。

アウシュビッツ収容所と壁一つ隔てた、広い家に住む家族。
収容所所長のルドルフ・ヘスとその妻ヘートヴィヒ、そしてその子供たちとお手伝い。
大きなストーリーは特にない。
強いて言えば、泊まりに来たヘートヴィヒの母が突然部屋を引き払ったこと。
そして、ヘスの昇進と転勤が決まり、さらに、ヘスのユダヤ人移送計画が採用されて、作戦名にヘスの名が冠せられたこと。
さらに、ヘスの自宅と収容所は地下で繋がっており、恐らくヘスはそれを使って、何か、性的に良からぬことをしていそうなこと。
それくらいだ。
あとは、家族の日常が淡々と描かれていく。
ある音を背景に。
それは、隣の収容所から聞こえてくるのであろう、銃声、叫び声、悲鳴。

多くの人が言うように、この映画の恐ろしさのひとつは、家族の無関心さだ。
塀一枚向こうで繰り広げらているに違いない惨状を知ってか知らずか日々の暮らしを続けていく家族。
彼らは、時にユダヤ人の着ていた衣服を平気で着ていたりする。
自分に危害が及ばなければどこまでも無関心になれる人間の恐ろしさ。
それは、今の僕たちとどこが違うのか。
ニュースでガザの子供の泣き叫ぶ姿を見て、家族が殺された遺族の話を聞き、天気予報の後は面白動画に腹を抱えて笑い転げる。
ガザも、事件現場も壁一枚向こうではないが、では、どれだけ近づけばいいのか。

もちろん、これがこの映画に感じる恐ろしさのひとつだ。
でも、もっと恐ろしいのは、そうでなければ、無関心でなければ生きていけない僕たちだ。
壁の向こうがアウシュビッツの収容所だったとして、子供が手当も受けられずに泣き叫ぶガザであったとして、あなたに、僕に何ができるだろうか。
どんなに悲しいニュースを見たとしても、明日はいつもの時間に起きて、いつもの電車で会社に行かなくてはならない、子供を学校に送っていかなくてはならない。
そうなのだ。
人間はいつまでも傷つけ合い、傷つけ合っている人の隣で僕たちは、自分のために生きていくしかない。
僕たちにできるのは、せいぜいそのことを受け入れること。
本当に恐ろしいのはそのことだと思う。

どうすればいいのか。
わからない。
収容所のユダヤ人焼却施設の清掃シーンと、嘔吐するヘスが描かれる最後のシーン。
せめてそこに、救いを感じたいと思うのは僕だけだろうか。

途中で、収容所の外壁のあたりに夜な夜なリンゴを隠す少女が出てくる。
ある夜、彼女は収容者から楽譜を受け取り(受け取ったのか、たまたまそこに捨て置かれたのかはわからないが)、ピアノで演奏する。
モノクロで始まるこのシーン。
これは希望なのか、それとも更なる絶望なのか。

理屈好きが語れそうなところはいくらもある。
全体に流れる不穏な響きもそうだし、ヘートヴィヒの母のいなくなった理由、自宅と収容所を繋ぐ地下道、これなんかは深層心理云々と語り出せそうだし、リンゴの少女、そして、それを背景にヘスが子供に読み聞かせるヘンデルとグレーテル。
下手をすれば、この映画についての言葉はいくらでも出てくる。
でもまずは、できるだけ何も語らずに、言葉にせずに、この世界に浸ってみてほしい。
時に芸術は合法的な麻薬なのだ。

作品は、アカデミー賞で5部門にノミネートされ、国際長編映画賞、音響賞を受賞した。
特に音響賞は納得だ。
音響は、この映画のもう1人の主役と言ってもいい。
ルドルフ・ヘス役にはクリスティヤン・フリーデル。
その妻、ヘートヴィヒにはサンドラ・ヒュラー。
この人は、「落下の解剖学」で、同じアカデミー賞の主演女優賞にノミネートされていた。

鑑賞後にスッキリする映画ではないし、万人受けする映画でもない。
何やねん、これ。
そんな人もたくさんいるだろう。
少なくとも、興味のある人は映画館で見てほしい。
とても自宅で見られるような映画ではない。

「オッペンハイマー」で、広島や長崎の犠牲者の映像が出てこないと騒いでいる人がいたが、この映画で、悲惨なユダヤ人の姿が出てこないと騒ぐ日本人はいるだろうか。
いないだろう。
壁一枚向こうの、遠い異国の話なのだから。
こんな僕も、映画の後にのほほんとスタバでこの文章を書いている。
海の向こうの悲劇よりも、自分のnoteのスキの方が大事なのだ。

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