見出し画像

『ネギ』

元妻と偶然会った。
新しい顧客との打ち合わせが早めに終わって、タクシーを待っている時だった。
声をかけてきたのは、彼女のほうだ。
いや、正確にはその前から、こちらが見つめていたのだ。
傾きかけた太陽を背にして歩く姿が美しかった。
もちろん、その時には、それが別れた妻だとはわからなかった。
だから、そうだとわかった時には思わず目を逸らしてしまった。
元妻は、そんなこちらの気持ちを見透かしたのかどうか、待ち合わせでもしていたかのように笑いかけてきた。

喫茶店で、あらためて見る彼女は、今も美しかった。
しかし、後悔はない。
離婚は十分に話し合って決めたことだ。
別に、どちらかが不倫をしたとか、暴力行為があったとか、そんなわけではない。
ギャンブルにのめり込んだり、変な投資話に引き込まれたわけでもない。
世間一般的には、良き妻、良き夫であっただろう。
子供こそいなかったが、もし生まれれば、そのまま良き母、良き父になると、周囲も思っていたに違いない。
強いて言えば、すれ違いだろうか。
お互いの仕事が忙しかったのも事実だ。
それと、家庭に対する考え方も、少しずつその隔たりが大きくなっていた。
世の中には、あんなに仲が良かったのにと言われる不思議な離婚がある。
しかし、それも今になれば理解できる。
最初は重なっているように見える線にも、目に見えないズレが必ずある。
そのズレは、時が経てば少しずつ大きくなる。
早い段階であれば修復も可能なのだろう。
しかし、それを放置しておいて、気がついた時には、もうふたつの線を再び重ねることは不可能になっていた。
およそ、2年前のことだ。
彼女は、その頃勤めていた金融関係の会社は辞めて、今は別の会社で事務をしているらしい。
「収入は減ったわよ、もちろん。でも、考え方も変わったのよ、今の時代に合わせてね。あなたは」
「僕かい」
こちらを見つめる彼女の瞳から、自然に目が逸れる。
「僕は、今は新しい彼女と暮らしているんだ。結婚はまだなんだけどね。料理が上手くてね、いつも用意して帰りを待っていてくれるよ」
彼女は、珈琲カップを口に運ぶと、口元だけで微笑んだ。
「そろそろ戻らないと」
伝票を掴むと、彼女をおいて立ち上がった。

その週の金曜日、珍しく定時で仕事を終えることができた。
日が暮れる前に駅からの道を歩くことは珍しい。
それでも、10分ほどの道のりを歩き終えるころには、じゅうぶん暗くなり始めていた。
エレベータを降りて、通路を曲がる。
別れた後も、そのまま同じ部屋を使い続けていた。
世間体と言っても、マンションの近所付き合いなどしれている。
ひとりで住むには、まして彼女が出て行った後は広く感じたものだが、引っ越すのが億劫で、そのまま暮らしている。
突き当たりの部屋の前に誰かが立っている。
彼女だ。
「どうした」
彼女は、振り向くと、下げていた買い物袋を持ち上げた。
ネギの頭がのぞいている。
「あなたは、昔から嘘が下手だったわ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?