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『人それぞれの』 # シロクマ文芸部』

ただ歩くだけでもいいんだよ。
彼は、わたしにいつも言っていた。
何もできなくていい、ただそこを歩くだけでもいいんだよ。
彼は、わかっていたはずだ。
わたしも、わかっていた。
大人は言う。
努力すれば、できないことはないと。
でも、そんなことが嘘であることくらい、それほど長く生きなくても理解できる。

彼が病に倒れたのは、高校2年生の秋だった。
3年生がいなくなり、新チームを結成してすぐの頃。
間も無く、秋の大会が始まろうという時だった。
わたし達の学校は、万年1回戦負け。
でも、その年は違った。
夏の大会で、2年生ながらエースで4番の彼は、創部以来の初勝利をもたらしたのだ。
残念ながら、2回戦では、昨年準優勝の学校にあたり、負けてしまった。
それでも、そんな強豪校にコールド負けしなかったことが、わたし達に希望をもたらした。
この分なら、来年の夏は、いやセンバツはどうだと盛り上がった。

もちろんそんなことは、ただのお祭り騒ぎだ。
センバツなんて、出られるはずもない。
来年の夏には、3回戦くらいまでは、くじ運によっては行けるかもしれない。
でも、その先はない。
来年、その先にあるのは、余った夏休みだ。
彼は、冷静に考えていた。
わたしも、彼に同意した。

わたしはマネージャーではなかった。
本当は、やりたかったのだけれど。
だから、マネージャーの子と仲良くなって、時々放課後手伝っていた。
彼が、練習の途中に、時々ぽんとグローブを投げて来る。
汗と油と革と、いろんな匂いが混じっていた。
そこにボールを入れておいて、練習再開の彼に手渡す。
そんなことから、時々、言葉を交わすようになった。

新チームで、彼は当然、キャプテンになった。
エースで4番でキャプテン。
彼のワンマンチームだった。
と言って、彼は威張ったりはしない。
ワンマンとは言え、それは、ずっとずっと低いレベルのワンマンだ。
彼はそう思っていた。
だからだ。
ある時、彼は言った。
ただ歩くだけでもいいんだと。
もしそこを歩かせてあげると言われたら、何をおいても絶対に行くよ。

その年の暮れ。
亡くなる直前に、ベッドの中で、それは声ではなく、もはや微かな空気の振動でしかなかったが、彼は誰にともなく言った。
部員全員で彼を見舞った日。
周りをチームメイトに囲まれて、彼は言った。
こんな俺たちでも、そこを目指していたって、それだけで、何か誇らしい気持ちになるよな。
そこを目指してますって、胸を張れるんだ。
もちろん、俺たちなんか、そこに行けるわけもないんだけど。
でも、ほんとに、歩くだけでもいいんだけどな。

その後、何十年と生きる中で、わたしは何人となく、そこを目指していたと言う人に出会った。
そこでプレイをした人も数人はいた。
しかし、ほとんどは、そこに辿り着くことを頂点とするならば、その広い裾野の入り口あたりにいた人たちだ。
彼ら本人は口にこそしないが、裾野から頂点を目指した、そのことに、彼らはどうやら誇りを抱いているらしい。
そして、彼らは一様に口にする。
どんな形ででも、そこに立ちたかった、ただ歩くだけでもと。
そうでない人には会ったことがない。
もちろん、その過程で語りたくない経験をした人は口をつぐむこともある。
それでも、彼らが恥じるのは、その一点のみで、それは、大きな誇りの中の忘れられない小さな染みのようなものだ。

高校を卒業して、最初の夏休み。
わたしはそこを訪れた。
その日、最後の試合が終わった頃には、そこは明るい照明に照らされていた。
引き上げていく観客の列から少し離れて、わたしは小さな紙切れをそこに投げ入れた。
そんなところに紙切れを投げ入れるとは。
選手にも、整備の方にも申し訳ない思いでいっぱいではあった。
許してください、一度だけです。

あの時、わたしが投げ入れたのは、彼の写真だ。
あの、全員で彼を見舞った日に、ベッドの彼を囲んで写真を撮った。
そこから、彼だけを切り抜いてきた。
別に、そんなことをしたからと言って、彼がそこを歩けますようにと願うほど、もう子供ではなかった。
彼の幻が見えるようなこともない。
ただ、彼の写真はそこにあるべきだと思ったのだ。
たとえ、どこからか紛れ込んだ紙切れだと、すぐに他のゴミといっしょに捨てられたとしても。
そのほんの短い時間でも、彼の写真はそこにあった、その事実だけを作りたかった。

それ以来、わたしは毎年、そこに通い続けている。
もう、何十年になるだろう。
その度に感じるのは、誰であれ、プレイをする人だけでなく、ボールボーイも、審判も、そこにいる人たちが、みんな、そこにいることを己の誉れと思っていることだ。
そして、スタンドにいる人も、今、そこにいることを、誇りとして、それは小さなものかもしれないが、胸に抱いている。
わたしは、もう若くない。
だから分かる。
そこは、ここだけではない。
人には、それぞれに、そこがあるのだと。
もうひとつ、自分が歳をとったと思うことがある。
瞬きするような、ほんの一瞬ではあるが、彼の姿がそこに見えるのだ。

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