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『わたしの金魚』 # シロクマ文芸部

金魚鉢の水を入れ替えるのは田中さんの仕事だ。その中で泳ぐ金魚にエサをやるのも田中さんの仕事だ。
いちど、わたしがたまたま一番に出社した日に水替えを済ませたことがある。
朝礼のあと、こっぴどく叱られた。
田中さんにではない。
課長に呼び出されたのだ。
余計なことをするな。
君を金魚のために雇っているのではない。
じゃあ、田中さんは金魚ために雇われているのですか。
言いたかったが、ぐっとこらえた。
そうだと言われるのが怖かった。
田中さんは、その日も何も変わらず接してくれた。
昼休みには、いつもと同じ、誰も聞いたことのない鼻歌を歌いながら、エサをやっていた。

それにしても、とわたしは思う。
初めてその金魚鉢を見た日から、思っていた。
それにしても。
金魚鉢は、それまでは漫画でしか見たことのなかった、あの、くらげを逆さにしたような形だ。
例えはおかしいが、子供の頭くらいの大きさはある。
それが、上の方できゅっとしまって、またキャンディの包みのように広がっている。
普通は、そんな金魚鉢に飼われる金魚は、数匹と言ったところだろう。
ところが、その金魚鉢には、数えたことはないが、何十匹泳いでいるのだろうか。
それにしてもとわたしが思うのはこのことだ。
金魚たちは、みんな同じ方向にくるくる泳いでいる。
あれは、そうしないと、みんなが好き勝手に泳ぎ出したら、溢れ出してしまうからだ。
みんな時計まわりで、規則正しく泳いでいる。
まるで、整理整頓された田中さんの机の上みたいに。

あれは、山中さんの送別会の翌日だった。
山中さんは、学校を出てから定年まで勤め上げた方だ。
これからは、お孫さんの面倒を見ながらのんびり過ごしたいとおっしゃっていた。
送別会には、社長も来られていた。
創業者の息子さんで、二代目だ。
盛り上がった送別会の翌日、あたしは普段通りに出勤したが、まだ誰も来ていなかった。
昨日の送別会でみんな疲れているのだろう。
自分の机を拭いていると、田中さんが出勤してきた。
田中さんは、机にトートバッグを置くと、中からビニール袋を取り出した。
金魚だ。
黒くてヒレが大きい。
田中さんは、その金魚を金魚鉢の中に入れた。
そして、いつもの鼻歌が始まった。
その鼻歌が何故か今朝はよく聞き取れた。
それは、鼻歌ではなくて、名前を呟いているのだった。
最後は、山中さんの名前で終わって、また最初に戻る。
金魚は時計まわりに泳いでいる。
山中さんの黒い金魚も、さっそく慣れたようだ。

それから、田中さんは、こちらを向くと、
「おはよう」
と頭を少し下げた。
あたしが辞めた時には、どんな金魚になるのだろうか。


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