『念仏男』
念仏男をご存知だろうか。
彼の現れるところは、大体において都会が多い。
都会の交差点の一角であったり、どこかの店先で見かけることができる。
交差点や店先で、ひたすら、途切れることなく何かを呟いている。
さながら、その姿をは念仏を唱えるようだ。
年齢はわからない。
彼の姿が最初に認められたのはかなり前のことだ。
それでいけば、もうかなり高齢のはずだが、代替わりしていることも考えられる。
ただ、それも彼が我々と同じ人間であるという前提だ。
人間でなければ、年齢や寿命など、恐らく関係はないだろう。
何をおかしなことをと思われるかもしれない。
だが、彼に関するこんな噂を耳にすればどうだろうか。
彼に名前を覚えられると10日以内に死ぬ。
仮にAさんとしておこう。
Aさんは、当時32歳の会社員だった。
勤めていた会社は成長著しく、Aさんもその中枢を担って活躍していた。
都心の高級なマンションに住み、独身生活を謳歌する毎日。
ある日、Aさんは取引先の担当者の死を知らされる。
ちょうど自分と同じくらいの年齢で、仕事以外の話でもよく盛り上がり、定期的な訪問を楽しみにしていた。
引き継いだ担当者から聞いた話はこうだった。
彼、つまり亡くなった前担当者だが、彼は健康的には何ら問題はなかった。
妻と2歳になる娘と幸せに暮らしていた。
正確に言うと、現担当者は、幸せだったと思いますと語った。
その日もいつも通りに出勤しようと玄関で靴を履いていた時に、そのまま倒れて亡くなってしまった。
奥さんは、通勤途中のことだと労災を申請しているようですが、玄関を出ていないので無理らしいですよ。
現担当者は、唇の片方に少しだけ笑いを滲ませた。
実は、2、3日前に彼、つまり前担当者は同僚と飲みに出ていたらしい。
店を出た同僚が振り返って、彼の名を呼んだ。
呼んでしまってから、その同僚は口を押さえたが遅かった。
名前を呼ばれて顔を上げた彼の後ろには、例の念仏男が立っていたらしい。
男が彼の名前を唱え始めて2、3日後だった。
彼が玄関で靴を履きながら亡くなったのは。
とは言え、身内でもなく、たかが取引先の担当者の死だ。
Aさん、ほどなくそんなことは忘れてしまった。
新しい担当者は、少し歳下ではあったが、こちらも前担当者に劣らず、Aさんと気が合った。
ある日、Aさんは職場の後輩と飲みに出かけた。
手がけていた仕事が、なんとかまとまりそうな目処がついたからだ。
機嫌良く寄って店を出たAさんの目に飛び込んできたのは、あの念仏男だった。
交差点の角に聞いていたよりも姿勢よく立ち、何かを呟いている。
Aさんは、後輩の手を振り払うと、ふらふらとその男に近づいて行った。
そして、念仏男の正面に回り込むと、内ポケットから名刺入れを取り出した。
ビジネスのマナーに沿って、名刺を1枚、念仏男に差し出した。
すると、驚いたことに念仏男もうやうやしく、マナー通りにその名刺を受け取った。
そして、一瞥した名刺を懐に収めると、Aさんの名前を唱え始めた。
それからAさんの身に何が起こったか。
何もおこらなかった。
10日目の夜、自宅でグラスを傾けていたAさんは、ベランダに出た。
間もなく日が変わる。
結局、あの噂は。
Aさんが手すりにもたれかかった時、
「あっ」
もちろん、世の中の不思議なことのほとんどは、単なる偶然の連なりでしかない。
念仏男の噂も、たまたまのことに過ぎないのかもしれない。
いずれ人間なんて、どこかで亡くなるのだから。
興味がおありなら、一度試してみられるがいい。
ただし、くれぐれも10日目の日が変わるまではご用心を。
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