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『ずれた世界』

皆さんは、毎日会っている家族や友人に違和感を覚えたことはないでしょうか。
あるいは、日常そのものに、何か昨日までと違う、そんなことを感じたことは。
彼の場合もそうだったらしいのです。
人と話していてもどこかがおかしい。
別に話が通じないわけではない。
ちゃんと通じている。
会話も成立している。
相手も自分も、お互いに笑顔で返すべきところは笑顔で、思案顔をするべきところは思案顔で、会話を運んでいる。
問題はない。
それでも覚える違和感。
相手は、昨日と同じ嫌味な上司、昨日と同じ飲み込みの遅い部下、お節介な清掃員のおばちゃん。
でも、みんな少しずつ違う。
それは、同じ月を見て話をしているのに、相手の見ている月と自分の見ている月が、ほんの数ミリずれている、そんな違和感。
そんなことを、彼は感じ始めていました。
毎日の車通勤。
同じ道を通っているのに、どことない浮遊感のようなもの。
会社の駐車場に車を停める。
いつもの場所にいつもの停め方で。
でも、違うんです。
ほんの数センチ、数ミリでしょうか。
いや、恐らく同じなのです。
同じなのに、違う。
家に帰ってもそうでした。
家族なら、階段を降りてくる足音で誰なのか分かりますよね。
彼もそうです。
いつもはリビングで新聞を読んだり、テレビを見ながら足音が聞こえてきても、それだけでわかるのです。
妻なのか、娘なのか、息子なのか。
もちろん、今もわかるのです。
それだと思った人物が現れる。
でも、その時に聞いた足音がいつもと違う。
その違いが、許容できる範囲の違いであるだけにもどかしい。
言葉にするほどでもない微かな違い。
ずれ。
世界が二重露出になったような。
別に視覚的にそうなのではなく、あくまでも感覚の話です。
この、世界のほんの数ミリ程度の、そのまま放置しても、その後の人生にさして影響のなさそうなズレ。
いわば歯医者に行くほどではない、奥歯のうずきのようなもの。
それでも、時に人は我慢できなくなるようです。

ある日、彼はリビングのいつものソファに腰を沈めていました。
そこから、キッチンで洗い物をする妻を眺めていました。
それは、妻であって妻ではない。
着ている服も、着けているエプロンも、間違いなく妻のものです。
いえ、その下の体も顔もすべて、妻には違いない。
ときおり漏れ聞こえてくる鼻歌でさえ、これまでに数え切れないほど耳にしてきた、妻のものでした。
でも、違うのです。
妻ではない。
別人というわけではない。
妻であって妻ではない。
彼は、我慢できずに立ち上がりました。
洗い物を続ける妻の後ろに立ち、
「お前はいったい誰なんだ」
と声をかけようとしたその時です。
妻が突然振り向きました。
「あなたは誰なのよ、いったい」
その手には包丁が握られていたそうです。
どうやら、わたしたちは少しくらいのズレや違和感は、受け入れた方が良さそうですね。

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