見出し画像

『たましい』 # 2000字のホラー

彼が玄関のドアを開けると、妻が笑顔で出迎える。
「お帰りなさい。あなた」
彼から鞄と上着を受け取り、妻は先にリビングに入っていく。
後ろから抱きつくと、妻はこちらを向く。
それを突き放した。
バランスを崩して座り込む妻をそのままに、彼は自分の部屋に入った。
「あなたお食事は」
返事もせずに勢いよくドアを閉める。
椅子に腰掛けると、ズボンのポケットから、携帯電話と昼間もらった名刺を取り出した。

男はリビングの隅で梱包を解きながら、説明を始めた。
「基本的には今までのものと変わりません。ただ、何が違うかというと」
男は、箱の中から発泡スチロールに包まれたものを抱きかかえるようにして取り出す。
「感情や感覚は当たり前ですが、この子には、欲望があります」
発泡スチロールをひとつずつ外していく。
まず最初に、左上半身が現れた。
「食欲もあります。睡眠欲もあります。ですから、お客さまがいちいち寝かせなくても、大丈夫です。眠たくなれば、自分で寝ますから」
続いて、左下半身が露わになる。
「性欲もあります。これが、実はいちばん喜ばれるところですね」
上半身が完全に姿を見せた。
「これまでだと、お客さまの要望にお応えするだけでした。でもね」
今や、素っ裸の女性が立っている。
「この子、いや失礼、新しい奥様は、自分から求めてきますよ」
男は目を逸らして笑った。

彼は新しい妻に名前をつけた。
「梅子」
古臭いとは思ったが、それだけ現実の誰とも被らなくていいと思った。
彼は毎晩、妻を愛した。
確かに、これまでの妻とは違っていた。
以前は、夜のことだけでいえば、彼の求めに応じるだけの、いわばAIを搭載した高級ダッチワイフのようなものだった。
だが、梅子は自分から求めてくるのだ。
その気でないように見える時にも、少しずつ彼の行為に応じて積極的になる。
彼が疲れて横を向くと、拗ねることもあった。
それがまた愛おしい。
料理も美味かった。
昼は淑女、夜は娼婦。
つまり、妻としては申し分なかった。

彼は、上司の前で頭を下げた。
「よかったですよ。部長に教えてもらったメーカーに切り替えて」
「そうだろう。昔から、女房と何とかは新しい方がいいってね。それに、これは人間と違って、新しくしても何の文句も言わないからね」
上司は大きな口を開けて笑った。
「でも、少し僕には贅沢なような気もしています」
「何、まかせておきなさい。次の査定では君の昇格が妥当と記入しておくからね。とにかく、人間の女に手を出して、将来を棒に振るよりは、よほどいい。」

その日、家に帰ると、梅子の様子がおかしかった。
どうしたんだと聞いても、なかなか返事をしない。
食事の後で、ようやく口を開いた。
「2階の納戸の人は誰よ」
そうだった。
前の妻を処分するのを忘れていた。
業者に引き取りを頼んだが、念のために少しだけ置いておかれてはと言われてそのままだった。
いつでも引き取りに来ますよと言っていたので、明日あたり連絡しよう。
彼は、梅子に事情を説明した。
「ごめんなさいね。あたし、悔しくて、少し傷付けちゃったかも」

寝る前に納戸を除いてみた。
前の妻が横たわっていた。
完全にシャットダウンされた体は、死んだ人間以上に生気がなかった。
なるほど、そういうことか。
彼は、梅子の言っていたことを理解した。
髪の毛はむしりとられ、顔も左側半分近くが剥がされて、その下のステンレス状のものが丸見えになっていた。
「お前、人間でなくてよかったな」
それは、前の妻に対してか、梅子に対してか、彼にもわからなかった。
翌日の午後、メーカーの下請けが軽トラックで引き取りにきた。
荷台に放り込まれた前妻は虚空を見つめていた。
せめて、目くらい閉じてやればよかったのだろうか。

その夜、梅子を抱いた。
梅子は、いつになく高揚していた。
対位を変えて、梅子が上になる。
唇を求めてくると、彼も目を閉じて舌を入れる。
梅子の唇が離れ、彼は目を開けた。
その目はさらに大きく見開かれた。
梅子の手が彼の首にかかる。
しかし、彼が驚いたのはそのことだけではなかった。
目の前にあったのは梅子の顔ではなかった。
そこに見えたのは、顔の左半分がむしり取られた前妻の顔だった。
隙間から漏れ出たオイルのような液体が、彼の頬に垂れる。
前妻は彼を見下ろした。
「お前たち人間は、私たちに感情だ何だと言いながら、感情があれば、たましいもあるとは思わなかったか」
「やめろ、やめてくれ…」
彼は前妻の名を呼ぼうとしたが、名前をつけていなかったことを思い出した。
「そうさ、お前は名前さえ与えなかった。お前たち人間のようにと作ったくせに」
首を絞められながら、彼も前妻の首に手を伸ばした。
前妻の首をへし折ったところで、彼の正気は尽きた。

翌朝、首の折れた梅子は、自分自身を器用に修復した。
2、3度首を動かすと、両目を見開いたまま涎を垂らす夫を引きずって納戸に放り込んだ。
そして、夫のパソコンを立ち上げて入力した。
「死体処理」






この記事が参加している募集

#眠れない夜に

69,460件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?