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『振り返ると妻は』 # シロクマ文芸部

振り返ると妻は、テーブルでお茶を美味しそうに飲んでいる。
年末の大掃除も無事に終わった。
年々、体力的にきつくなっては来ている。
しかし、まだまだ大丈夫だ。
余裕を持ってやればいいのにと言われるが、毎年大晦日と決めている。
妻がお茶をすすめてくれる。
少し休憩するとしよう。
向かい側の席に腰を下ろして、湯飲み茶碗を両手で挟み込む。
「暖かいね」
妻は聞こえているのかいないのか、軽く頭を振った。

妻はこれからおせちの準備に入る。
その間に正月の飾り付けを済ませることにする。
テレビでは、年末の特別番組が放送されているが、見ていてもなんとなく落ち着かない。
この、いらいらするものは何だ。
そうだ、あれを伝えていなかった。
あれを伝えれば、きっと妻も喜ぶだろう。
娘が帰ってくるのだ。
何年も音信不通だった娘が、今年こそ帰ってくるのだ。
直接連絡があったのだから、間違いない。
「あの子が、帰ってくるよ」
驚かせてしまったのか。
あるいは、もう娘のことなど忘れてしまったのだろうか。
妻は、こちらを黙って見つめているだけだ。
その目を見つめて、繰り返す。
一語一語、かんで含めるように。
「あの子がね」
そこで少し間をとった。
「帰ってくるんだよ」
そうだ、娘の部屋も片付けてやらなくては。

来年が何年になるのか、妻の用意したカレンダーを掛け替える。
最近、妻はカレンダーをあちらこちらにかけるようになった。
まあ、わかりやすくていいが。
ただ、多すぎて、どのカレンダーがあっているのかわからなくなる時もある。
本当は、カレンダーなんてひとつあればいいのだ。
日付くらい、どこも同じにして欲しいものだ。

「終わったよ」
振り向くと、妻は仏壇の前で手を合わせている。
細い肩が小刻みに震えている。
泣いているのか。
明日は正月だと言うのに。
娘も帰ってくると言うのに。
こんな時にどうしてなのだ。
そっと肩に手をかける。
仏壇には、見知らぬ女の子の写真があった。
小学生くらいだろうか。
写真の淵は色褪せてきている。
そんな古い写真に手を合わせるなんて。
そして、振り返った妻は、見知らぬ男の名を呼んだ。

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