『霧の朝』 # シロクマ文芸部
霧の朝のことだった。
深い深い霧の朝のこと。
彼はいつものように、車で仕事場に急いでいた。
もうほんの少し早く起きればいいものを、ベッドでぐずぐずしているものだから、毎朝慌てて部屋を飛び出すはめになる。
そして、職場までの30分ほどの道のりを、信号以外の法規は全て無視してアクセルを踏む。
そして、その朝は深い霧がたちこめていた。
ことに、その橋の上は。
あっと思った時には遅かった。
フロントガラスに男の子がぶつかり、弾き飛ばされた。
その時、彼は一瞬、その男の子と目が合ったような気がした。
車を止めると、慌てて男の子の元に駆け寄るが、彼は急に立ち止まりあたりを見渡した。
濃い霧に覆われている。
他には通行する車も人もいない。
いや、いたとしてもお互いにこの霧ではわからないだろう。
彼が悪人だとは言わない。
ただ、その日は朝から大切な商談が控えていた。たまたま、そう、そしてたまたまそれが霧の朝だった。
彼の車は、男の子を慎重によけて動きだした。
帰りにその橋の上を通ってみた。
もちろん、男の子の姿はない。
事故を処理したような形跡もなかった。
きっと、心配するほど大した怪我ではなく、自分で家に帰ったか、学校に行ったのだろう。
そう思うと、彼は思わずおおきな息を吐いた。
その夜、眠ろうとして窓の外に目をやると、霧がうっすらとかかりはじめている。
突然インターホンが鳴った。
インターホンなどというものは、いつも突然鳴るものではあるが、その時の彼には、それ以上に深く響き渡った。
モニターを覗くと、女の子が立っている。
こんな時間に何だよとののしってから、受話器に返事をした。
女の子は、画面いっぱいまで近づいてきた。
「あの、弟を迎えにきたんですけど」
え?
背後で声。
「あ、お姉ちゃん」