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『水色の日傘』 # シロクマ文芸部

私の日傘、知りませんか、きれいな水色の日傘。
俺は、インターホンの向こうの声に体中が震え出すのを抑えることができなかった。

その日も帰りは遅くなった。
最近は、ずっと残業続きだ。
その割には、成績は思わしくない。
所長には、毎朝、朝礼で「給料泥棒」と罵られている。
まったく、あれで部下がやる気を出すと思っているのなら、おめでたいもんだ。
ああ言う奴を、昭和の遺物と言うんだろう。
そのうち、誰かに刺されるか、そうでなくても、パワハラで訴えられるだろう。
俺は、そんな面倒くさいことはするつもりはないが。
他にいいところがあれば、黙っておさらばしてやる。
人気のないガレージでエンジンをかける。
この時間がいちばん虚しいかもしれない。

自宅アパートの前まで来て、食料のないのを思い出した。
そのまま川向こうのコンビニに引き返す。
コンビニで、適当な弁当と缶ビールを2本。
車に乗った時に魔が刺した。
少しの距離だからと、缶ビールを開けてしまった。
2本を飲み干して、さらに2本を買い足すとコンビニを出た。
小さな橋に差し掛かったあたりで急に酔いが回ってきた。
いつもはビール2本くらい、なんて言うことはないが、やはり疲れていたのか。
前方に傘をさした女性が見えた。
雨も降っていないし、日傘をさすような時間でもない。
まさか、幽霊か。
いや、変な女に違いない。
そう思っているうちに、意識が飛んでいたのだろう。
激しい衝撃で目を開けると、フロントガラスの前に傘があった。
途端に酔いが覚める。
やってしまった。
エンジンを切って、車を飛び降りる。
あたりを見渡すが、女性の姿はない。
車の下を覗きこんでも、誰もいない。
まさかと思って欄干から下を覗き込む。
そのあたりは、まだ川原になっているが、人の気配はない。
車の損傷を確認した。
フロントに特に傷やへこみは見られない。
ライトも問題ない。
俺は、ボンネットに乗ったままの水色の傘を畳んでトランクに放り込んだ。
日傘だろうか。
幸い、通りかかった人も車もない。

あれは、幻覚だったのか。
帰り着いてトランクを開けると日傘は無くなっていた。
いや、でも、あの衝撃は本物だった。
弁当を食い、追加で買ったビールを開けた時にインターホンが鳴った。
こんな時間に誰なんだ。
「はい、どちら?」
「私の日傘、知りませんか…」

彼女は、自宅までの道を歩きながら今日のことを思い出していた。
待ち合わせのレストランに、少し遅れてやってきた彼は、頭をかきながら、「これ」と差し出した。
それは、鮮やかな水色の日傘だった。
「お誕生日おめでとう」
席につくと、彼は小さな声で言った。
彼女も同じように小さな声で、
「ありがとう」
と返した。
その後、いつものバーに行き、そこで彼はプロポーズした。
彼女「はい」とうなずくと、それを見ていた他の客から一斉に拍手が起こった。
それから、少し飲み過ぎてしまった。
彼の呼んでくれたタクシーに乗り、帰るまでに少し歩きたかったので、橋の手前で降ろしてもらった。
自宅は橋を渡ったところだ。
橋の手前で、彼女は手にした日傘を思い出した。
さしてみよう。
こんな時間だから、誰も見ていないに違いない。
少し酔いもあったかもしれない。
彼女は日傘をさして、暗い橋を渡り始めた。
少しふらっとして、車道の方によろめいた時に衝撃を感じた。
水色の傘が、手から離れるのを見た。
そして、今日のことが遠い過去のものであったような気がしていた。

橋のたもとには、古くなった立て看板。
「ひき逃げ事故の目撃者を探しています…」

「橋の上に水色の日傘を見つけても、絶対に持って帰ってはいけないよ」


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