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『ベテルギウスの隣』

風は、少し強くなってきた。
しかし、冷たい空気は、暖房で暑くなりすぎた体には心地よい。
それに、この冷たさが、僕に諦めるべきものを諦めさせてくれる。
さらに、マンションの最上階のテラスに吹く風は、その諦めたものまでさらって行ってくれそうだ。
揺れる星々の間のさらに小さな光。
ちょうどオリオン座の左角、ベテルギウスの隣を掠めていく光。
その小さな光は、やがて消えて見えなくなった。
飛び立つところは見なかった。
いや、見ることができなかったのだ。
彼女が、息子の顔を見なかったのと同じように。
「辛くなるから」と彼女は言った。
いつもと違ったのはそれくらいだ。
その後、僕たちは、いつもと変わらない挨拶とも言えない言葉を交わした。
僕たちがもう会えないのは、どちらがが死んだ時と同じくらい確実なことなのに。
また、明日の朝には戻ってくるよとでも言うかのように。

「予定の日が来たわ」
昨夜妻は言った。
多分、ずっと前から決まっていたのだ。
それに、そんな日の来ることは、僕もわかっていた筈だ。
お互いに、黙っていた。
嘘はつきたくないから、黙っていた。
「いつ」
せめて夫としての義務を果たすように尋ねた。
「明日の夜」
本当は、もっと慌てふためいた方が良かったのかもしれない。
しかし、僕は、
「わかった」
それが、優しさだと思った。
そして、今夜。
3歳になる息子は、同居している父が寝かせてくれた。
2人でテラスに立つ。
「どのあたりかな」
僕は、そっと妻の肩に腕を回した。
妻も軽く体重を預けてくる。
「オリオン座のベテルギウス、あの横を通って行くわ」
「見えないね」
「きっとね」
それから、沈黙が続いた。
「顔、見て行けば」
部屋を振り向いた。
まだ、父は息子の部屋から戻っていない。
もしかすると、それは父なりの気配りなのだろうか。
そんなことに考えが及ぶような人ではないと思っていたが。
「辛くなるから」
「わかった」
再び、沈黙。
風が強くなってきた。
「ベテルギウスの隣だね」
「ええ」
「じゃあ」
「ええ、それじゃ」
「うん、行きなよ」
僕は部屋に入った。
テラスに背を向けて置かれたソファに腰を沈める。
この部屋に住む時に、少し無理をして買ったものだ。
飲みかけのワイングラスを手に取る。
暖房に体がほぐされた頃に振り向くと、もう妻の姿はなかった。
妻は自分の星に帰って行った。

光が消えて、風はさらに強くなってきた。
気配を感じて振り向くと、父が隣に立っている。
ふたつ持っていたグラスのひとつを僕に差し出す。
グラスを受け取って、ふたりで手すりにもたれた。
「ねえ、父さん」
父は声にはならない、ため息とも咳ともわからない返事をした。
「母さんが星に帰る時には、僕の顔を見たのかな」

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