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【ピリカ文庫】 『カーネーション』

水面が近づくように、目覚めの気配がする。
波紋を裏側から眺めるのは初めてだ。
向こう側に、誰かの顔が近づく。
見知った顔だ。
声がきこえる。
私を呼んでいる。
お母さん、お母さん…


…お母さん、お母さん。
ねえ、僕が初めてカーネーションを送った時のこと、覚えてる?
初めて買った、母の日のカーネーション。
お母さんは、僕の目の前で捨てちゃったよね。
こんなもの、いらないって。
ひどい母親だな。そう思ったよ。
実際、ひどいよね。
僕は泣いたよ。
すぐに、自分の部屋に駆け込んで、ベッドに顔を埋めて泣きじゃくったよ。

あのね、最近わかったことがあるんだ。
命って、一冊の本なんだね。
本だけど、中にはまだ何も書かれていない。
そこに物語を書くのは、自分なんだ。
悲しい物語も、楽しい物語も、自分で書かなくちゃいけない。
長い物語もあれば、短い物語もあるよ。
でもね、最後の1ページまで、自分で書かなくちゃいけないんだよ。
そして、最後の1ページまで書き終わった時、その本は大きな書棚に並べられるんだ。

もちろん、途中で投げ出された物語もたくさんあるよ。
最後まで書き上げられずに、白いページをいっぱい残して放り出された本もたくさんあるよ。
それが、権利なのかどうかは知らない。
でも、やっぱり最後まで、書き上げないといけないと思うんだ。
思うとしか言えないのが、もどかしいんだけどね。

でも、それでも、僕は思うよ。
たとえ愛する人を失う物語であっても、自分の本は最後のページまで書き進めなければだめなんだって。
ね、お母さん。
それなのに、お母さんは、昨日、自分で閉じようとしたんだよね、その本を。
まだまだ、白いページが残っているのに。
物語の途中なのに。
ごまかしたって、だめだよ。
ほら、見てごらん。
そこに転がっている薬のケースを。
そんなに一度に飲んじゃだめだよね、お母さん…


私は目を覚ましたいと思った。
あの水面の向こうにきっと息子はいる。
でも、どうして?
息子に会うために、永遠に眠り続けようとしたのに。
息子は、向こうにいるの?
目覚めの向こうに?
お母さん、お母さん…


…お母さん、僕が死んだ時のこと、覚えてる?
どうして死んだのかは、言わなくていいよ。
僕は覚えてないんだから。
今さら思い出したって、どうしようもないし、知りたくないね。
もう、僕の本は書棚に並んでいるんだから。
僕はもう書き上げたんだよ、最後の1ページまで。
思ってたより短い物語だったけどね。
それより、僕が死んだ時のことだよ。
僕が「ありがとう」って言ったのに気がついてた?

僕の物語と、お母さんの物語、本来、別々の物語が、たとえほんの短い期間であっても絡み合って、同じストーリーを語っていた、これって素晴らしいことだと思わない?
僕の物語にお母さんが登場して、お母さんの物語に僕が登場したんだよ。
だから、「ありがとう」って言ったんだ。
僕の物語の登場人物になってくれてありがとうって。
もちろん、僕の物語と、お母さんの物語は別だよ。
親が子供の物語を書こうとするなんて、親の思い上がりだね。
過保護とか、親バカって言うんだろ。

だから、もう、かわいそうとか、ごめんねとか、そんなのやめてもらっていいかな。
僕は僕なりに、短い物語でも、最後まで書き上げたんだよ。
そんなに、頑張らなかったかもしれないけど、それでも、僕の本は書棚に並んでいるんだから。
それは、悲しいことじゃないんだって。

でも、あの時のお母さんは厳しかったな。
だって、初めて買ったカーネーション。
それを捨てちゃうんだから。
僕は悲しくて、悔しくて、自分の部屋に駆け込んで泣いたよ。
さんざん泣いた僕が部屋から出てくると、お母さんはこう言ったんだ。
カーネーションなんか、欲しければ自分で買います。
カーネーションをあげる人のいない友だちのことを、あなたは考えたことはあるのですか。
考えたのなら、その友だちのところに行って寄り添ってあげなさい。

厳しいお母さんだよね。
でも、お母さんのこの言葉のおかげで、僕は何人もの物語に登場できたんだ。
そして、僕の物語にもみんなが出てきてくれたんだよ。
そうなんだ。
寄り添ってあげるというのは、寄り添ってもらうことでもある。
そして、寄り添ってもらうっていうのは、寄り添ってあげることでもあるんだよ。
だから、無理をせずに、寄り添ってもらっていいんだよ、お母さん。
大丈夫だよね。
それじゃ、僕は行くよ。
僕の物語はもう終わっているけど、お母さんの物語には、お母さんが書き続けてくれれば、僕もまた登場するかもしれないね。
そうだ、お母さんの物語の続きは、赤いカーネーションの挿し絵で始めるといいよ。


私は水面から顔をだした。
私は目覚めた…生きている。
昨日と同じ部屋が、そこにある。
息子の気配に振り向くと、枕元に一輪の赤いカーネーションがあった。
いつの間にか窓が開いて、カーテンが心地よい風に揺れている。
そうだ。
挿絵には、「生きている」と書き添えてみよう。

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