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『祖父の手紙』# シロクマ文芸部

「ヒマワリへ」と書かれた封筒が出てきた。
祖父の葬儀の前に、遺品整理を手伝っていた時だ。

祖父が何十年も使っていた文机があった。
しかし、祖父がその文机に向かっている姿を見たことはない。
それもそのはずだ。
私たちが訪ねた時には、祖父はほとんど私や他の孫の相手をしていたのだから。
だから、文机の存在そのものを意識したこともなかった。

その文机の一番上の引き出しの奥に封筒はあった。
時の流れに少しずつ、奥へ奥へと押し込まれたかのように。
それほど古く、折れ曲がっていた。
もともと茶色かったであろう封筒は色褪せ、色褪せた後が容赦ない時間の色に染められている。
しかし、封だけは己の劣化を頑固にはねつけて、少しの緩みもない。
何があっても口を開くもんかと、黙秘を続ける被疑者のようだ。
手触りでは、手紙か書類が入っているのだろうと想像できる。

私の家族にも、親戚関係にも、「ヒマワリ」という名前はない。
祖母も既に亡くなっており、聞くことはできない。
父や母も、心当たりはないと言う。
古い家には小さな庭があるが、そこでヒマワリを見たこともない。
電話台には、五十音順に見出しのついた住所録がある。
ひとつずつ、みんなでチェックしたが、それらしい名前はなかった。
封筒の宛名は何度見ても、「ヒマワリへ」だ。
それ以外には読みようがない。

そう言えば、と伯母が話し出した。
祖父は若い頃、東ヨーロッパのある国に仕事で派遣されていたことがある。
まだ、祖母と結婚する前のことらしい。
ただ、伯母も父も、その時の話は、ほとんど聞いたことがない。
その国につながるような写真も品も見たことがない。

その夜、夢を見た。

広い野原を走っていた。
いつの間にか、周りは丈の高いヒマワリに囲まれている。
黄色い花を太陽に向けるヒマワリが、地平線にまで咲き誇っている。
ヒマワリ畑の上は青い空だ。
笑いながら、どこまでも走っていく。
突然、空が暗い影に覆われる。
同時に笑顔が消える。
体がすっと小さくなる。
それは、私ではない。
小さな体で泣きながら走っている少女を、私は眺めている。
いつの間にか私は少女の手を引いて走っている。
その少女が誰なのかはわからない。
黒い影が近づくたびに、どこからか悲鳴が聞こえてくる。
足元のヒマワリが燃え上がる。
少女の足元のヒマワリにも火がつく。
私につかまる少女の手に力が入る。
私は少女に声をかけて、ヒマワリ畑の中を走る。
黒い影が急降下して、私たちの真上を通り過ぎていく。
影がヒマワリ畑の向こうに消えた時、私は気がつく。
私の手は何も握っていない。
この手につかまっていた少女の姿がない。
振り向くと、ヒマワリ畑の中にできた小さな窪みに気がつく。
泣き叫ぼうとした瞬間に、私は祖父になっている。
私はヒマワリの隙間から、泣き叫ぶ祖父を見ている。
祖父の声は聞こえない。

翌日、私たちは封筒の封を開けることなく、祖父の棺の中に入れた。

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