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『新しいこと』

「新しいことを言おうとしたって、そりゃ、あなた、無駄ですよ」

僕はかなり酔っていた。
10月の連休も終わってまもない頃。
夜が気持ちのいい季節だった。
小さな賞を獲った小説が、ネットで評判になり、2作目、3作目と書き続けた。
しかし、もともとそんなに深い思想や哲学を持っているわけではない。
書きたいことが山ほどあるわけでもない。
世の中に恨みつらみもない。
たちまち、アイデアは枯渇した。
毎日、パソコンの前に座るものの、一行も進まない。
ひとこと打つたびに、次の言葉に詰まる。
仰向けに寝転んで、うんうんと唸っても何も浮かんではこない。
いっそと思った。
いっそ、盗作でもしてやるか。
実際、この業界に入って初めて耳にしたことだけれども、かなりの頻度で盗作は行われているらしい。
あからさまにはわからないように、色々と変えられてはいるものの、プロの編集者が見ればわかるようだ。
中には、誰もが知る大御所のベストセラーの名前もあがっていた。
「わからないように盗む。それもまた技術ではありますけどね」
そうかもしれない。
今の僕には、そんな技術さえないのだろう。

気分転換にと編集者が飲みに連れ出してくれた。
気分が良くなり、何杯もグラスを空けた
ビールから始まり、酎ハイ、ハイボール、ワイン、水割り。
ああ、こいつは悪酔いするパターンだなと自分でも思ったけれども、もう大きくなった気持ちは止められなかった。
「タクシー呼びましょうか」
「ら、らい丈夫、歩いて、帰えりますよーっと」
僕は、気持ちのいい10月の夜の街を、千鳥足で歩いて帰ることにした。
どこをどう歩いたのか。
気がつくと、そこは公園の中だった。
小さな池を囲む鉄さくに引っかかって頭から池にはまりそうになるのを、何とか持ちこたえた。
そこにあったベンチに腰を下ろした。

「新しいことを言おうとしたって、そりゃ、あなた、無駄ですよ」
突然声がした。
いつの間にか、隣にメガネの老人が座っている。
「はっ、はあー」
驚いた僕は、そんな頼りない返事しかできなかった。
「言い尽くされて、それはまた書き尽くされていますからね。大昔に、誰かが何かを言おうとしたその時に。だから、もう新しいことなんて何も残っちゃいないんです」
老人はこちらを向いた。
僕は、視線を合わせないように気をつけながら、少しだけそちらに顔を向けた。
「そうじゃなくて、楽しいのは、その書き尽くされたことを、誰も読み尽くしてはいないと言うことですよ。世界は読み尽くされていない大部の書物なのですよ」
「でも」と何か言おうとした時には、老人の姿はなかった。
三日月が、少し揺れていた。
僕は、立ち上がり家までの道を歩き始めた。
さっきの老人、誰かに似ていたなと考えながら。

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