『海砂糖の味』 # シロクマ文芸部
海砂糖と呼ばれているのは、小さな白い塊だった。
縦横10センチほどの、いびつな形でそれは発見されたという。
発見されたのは山の中腹あたり。
そこは、200万年くらい前には海岸だったとされている。
その証拠に、魚介類の化石も時々発見される。
「どうです、少し舐めてみられますか」
男は、海砂糖から小さなかけらを削りとって、私に差し出した。
私は、その小指の爪の半分ほどの白い塊を舌にのせてみた。
それは、一瞬で溶けてしまう。
そして、何度も口の中で舌を動かしてみる。
はしたないとは思ったが、ぴちゃぴちゃと音を立てて、舌の感知する味を確認した。
「どうですか」
男は面白そうに私の口元を見つめている。
その顔を見て、私はあきらめた。
「そうでしょう、何の味もしない。甘いどころか、塩辛くも酸っぱくもない」
その通りだった。
海砂糖というからには、てっきり甘いものだと思っていた。
それは、甘さも辛さもない、味覚の真ん中の空洞、そんな感じがした。
「でも、これが、本来の味であり、本当の甘さなのです」
そう言うと、男は自分も海砂糖の塊からひとかけらを口に含んだ。
「うーん、甘い」
男は目を細める。
「わかりますか。あなたと私は同じものを口にして、あなたは無味、私は甘いと叫んでしまう。でもね、味覚なんてこんなものですよ」
男は、海砂糖をいったんケースに戻して話し始めた。
「もともと、味なんてないのです。熊やライオンが、これは甘い、これは辛いなんて感じていると思いますか。彼らには、食べていいかどうか、それだけです。そして、食べていいものは、何であれ美味しいのです。
そして、本来、美味しいものは甘いのです。いや、甘かった。もちろん、まだ誰も甘いという感覚は持っていなかったでしょう。甘さなんて、辛さとの対比ですからね。ただ、我々の言う甘さを感じる味覚しかなかったのです。
今でも、人間以外の動物はそうでしょう。彼らの世界は甘いもので満ち溢れているのです」
男は、ここで、2つのカップにコーヒーを注ぎ足した。
「冷めてますが、よければ」
そう言って、自分でひと口飲むと話を続けた。
「多分、その頃の海は生物にとっては甘い水が波打っていたのでしょうね。
ただ、人間だけが、他の味覚を手に入れてしまったのです。塩辛い、酸っぱい、苦い。その時に、我々は手放してしまったのです。
食べていいかどうかを判断する能力を。今の我々にあるのは、美味しいかどうかだけです。さらに、そこに個人の好みまで加わってきた。肉の嫌いなライオンなんて見たことありますか。牧草を食べない牛なんていますか」
私がコーヒーを飲むのを見て、男は話を中断した。
コーヒーは確かに冷めていた。
「嗜好なんてのは、人間のための言葉です。まあ、言葉と言えば、我々の言葉も味覚と同じ運命を辿っているのかも知れません。最初は甘い言葉だけだったのが、今では辛い言葉や酸っぱい言葉で溢れているじゃないですか。
いや、言葉はあなたの専門ですから、やめておきましょう」
男はまた、海砂糖の塊を取り出した。
「これが海砂糖と呼ばれるのは、すべての味の原点であり、当時の我々の味覚とともに保存されているからなのです。
どうですか、もう一度味見されてみては」
私は、男の差し出す小さなかけらを再び口に含んだ。
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