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『彼女にまつわるもの』

窓を三分の一ほど開けると、青い空とは裏腹に、少し冷たい風が吹き込んできた。
昨日までは暖かくなりかけていたのに。
春は春になりかけて、何度も足踏みをする。
いや、これは本当に春なのだろうか。
春のふりをした冬が、いつまでも私たちを騙し続けているのではないだろうか。
そんなことを考えながら、ベッドから出る。
いつものように、窓際に置いたベッドの窓の下にくっつくようにして寝ていたことに気がつく。
ひとりで少し笑ってみる。

朝食は食べるよね。
そうか。
オープントースターに食パンを入れるだけ。
うっかり2枚入れそうになる。
牛乳は電子レンジで温める。
その間に、コーヒーの準備。

さて、今日は何を着ていこうか。
昨日は薄手のダウンジャケットで暑かったんだ。
今日は、少し肌寒そうだし。

夕食は何にしようかな。
まだ朝なのにね。
そうか。
そうだよね。

毎日見ていた建物が更地になると、もうそこに何があったのか思い出せなくなるように。
テレビの横の空間。
あそこには何があったのだろうか。
カーペットの色がくっきりとそこだけ変わっている。
変わったのは、むしろそこ以外の部分なのだけれども。
剥き出しのクローゼットの3分の2のスペース。
空のハンガーが手持ち無沙汰かのように揺れている。

この部屋から無くなった彼女のスペースが妙に気になる。
まるで、彼女本人は最初からいなかったかのように。

それでも、朝食は食べるよねと聞くと、いつもううんとどっちなのかわからない返事をしたのは、間違いなく彼女だった。
着ていく服を決めてくれたのも、彼女だった。
特にこんな天気の日には、これにしなさいと選んだ服を椅子の背にかけてくれた。
夕食には何が食べたいと尋ねても、いつも、何でもいいよと、少し強めの息を吐く。
何でもじゃわからないよとお決まりの返し。
でも、その何でもいいよは、紛れもなく、返事だったのだ。

この部屋から消えたのは、彼女の服やドレッサーやドライヤーやリップや化粧水や香水や歯ブラシやスターバックスの黒いマグカップや、そんなものだけではない。
彼女の好みや息や、よくわからない気のない返事。
そんな彼女にまつわるもののすべてが、去っていったものの正体なのだ。
そして、ここに残ったもの、それは僕にまつわるものと、彼女が忘れて行った、あるいは残して行った、少しだけ2人にまつわるもの。
それらを、彼女はどう思うのだろう。
いつか、失ったと思うのだろうか。

開きかけていた窓を全開にする。
眩しいくらいの空。
ここまでの過剰な青空を誰が必要としているのだろうと、疑いたくなるような。
何かを失った朝はよく晴れる。
それが自論だ。
そうであるならばと、もう一度、雲ひとつない空を見る。
冷たい風が入り込む。
そうであるならば、彼女の空も晴れていて欲しいものだ。

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