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『満月の夜にベランダで』

息子が眠ったので、ベランダに出てみた。
向かいの6階建てのマンションの向こうに、満月が明るい。
こちらは7階だけれど、同じ高さだ。
向こうのほうが高台にある。
今夜は十五夜だっただろうか。
勤め先では、そんな話は出なかった。
元々、そんな雰囲気の職場でもないが。
ふと、不安になるが打ち消した。
わざとらしく、首を振ってみる。
どちらでもいい。
ともあれ、私は、今、満月を眺めている。
夫が缶ビールを片手にやってきた。
「綺麗だねえ」
「大きな声を出すと、お隣に聞こえるわよ」
そういえば、夫とこうして月を眺めるのはいつ以来だったか。
毎年この日はやってきていた筈なのに、記憶にない。
「こうしていると、何だか、出会ったばかりの雰囲気だな」
「何よ、急に」
もうどれくらい前になるのだろうか。
夏休みが終わって少ししてからのことだった。
あの夜も満月だったから、もしかすると同じ日だったのかもしれない。

夫は少し声を落とした。
「君と同じ月を僕も眺めているよ、なんて、みんなスマホで送り合っているんだろうなあ」
「今どき、そんな使い古されたこと、誰も言わないわよ」
夏休みの最後にあった模擬テストの結果が良かった。
私は、都会の大学に行くことを決心した。
その大学でなければならない理由などはなかった。
4年間を過ごすのならこんな雰囲気がいいという程度の希望の学部なら、地元の大学でもよかったはずだ。
単純に都会に憧れていただけだ。
そこで、これまでに身につけたこの町の暮らしは、誰にも気づかれないままに脱ぎ捨てよう。
そう思っていた。

夫は、不意にこちらを向いた。
「月見団子、買っとけばよかったね」
「ビールには合わないでしょ」
「まあ、そうだね。どうしてお団子なのかも知らないしね」
脱ぎ捨てるべき、身につけた暮らしの中に、彼も入っていた。
田舎の町に特有の長い夕暮れの間、私たちは何も話さずに座っていた。
校庭の隅の木製のベンチ。
体育系のクラブ活動も既に終わっている。
つるべ落としなど、今では聞くこともなくなったけれど、その町ではまだ耳にしていた。
暗闇に包まれると同時に、少し肌寒くなった。
どう切り出せばいいのか。
都会で新しい彼を作るから別れてちょうだい。
それだけのことが、言い出せなかった。

「このマンションにきて何回目だっけ、十五夜って」
「ここに越してから3年だから、3回目じゃない?」
「そうだ、去年は雨だったんだ」
そうだったのだろうか。
「そうだったかしら」
「ちがったかも。でも、久しぶりじゃないかな、こうして月を眺めるなんて」
お前、東京の大学に行くんだろ。
最初に話し出したのは彼だった。
向こうには、かっこいいやつ、いっぱいいるんだろうなあ。
そう言って、確か彼は立ち上がったのだった。
あのさ、向こうで彼氏ができずに恥ずかしいと思ったらさ。
何よ。
その時には、田舎に彼が待ってるっていう設定、使ってもいいぞ。
馬鹿なこと言わないで。
だって、こんな田舎の女の子が、都会で相手にされるわけないだろ。
じゃあさ。
と、私も立ち上がった。
あなたも彼女ができなかったら、もうすぐ彼女が東京から帰ってくるって見栄張ればいいわ。
お前こそ、迎えに来てって言っても、俺はもうその時には新しい彼女がいるから無理だからな。
あなたなんか、東京に来たって、右も左もわからないわよ。
お前も同じだろ。
結局、そんな言い合いになってしまった。

夫は2本目の缶ビールを開けた。
「飲み過ぎじゃない」
「昨日は飲んでないからね」
彼に言い返しながら、こんな口喧嘩で終わってしまうのかと思っていた。
そのとき、不意に遠くから光に照らされた。
やばい。
彼は私の手を引いて走り出した。
宿直の教師に見つかったのだ。
追いかけてくる教師に向かって彼は砂をつかんで投げつけた。
教師の怒鳴り声を尻目に、私たちは低い金網を乗り越えた。
彼に手を引かれて走りながら、私は満月を見つめていたのだった。
翌日、私たちが職員室に呼び出されたのはいうまでもない。
その後、私も彼も希望通りの進路に進んだ。
しかし、お互いに、彼が待っているとか、彼女が帰ってくるといった設定を使うことはなかった。

「ねえ、高3のあの夜のこと、覚えてる?」
「ああ、宿直の先生、怖かったな」
「そりゃ、あんなに砂をかけられればね」
「うん、わかるよ、あの夜も満月だった」
私はこれからもこの月を見続ける。
あの夜と同じこの月を。
そして、あと何十回も私たちは同じ話をするのだろう。
これまで、数えきれない数の人間があの月をみて、何かを思った。
そして、今も。
いつかは、息子も。
同じ月を見ている。
使い古された言い方でしか、伝えられないこともきっとある。
とまれ、月は中空に輝いている。





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