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『貸してあげます』

そんなことってあるだろう。
好きでも何でもない子に声をかけることって。
別に、デートに誘うとか、そんなことじゃない。
いつもひとりだから可哀想だなって。
俺でも、声をかけてやらなきゃなって。
そうなんだ。
はっきり言って、美人じゃないさ。

ある日の昼休み。
その子が、会社の食堂でひとりで食事をしていた。
他の女子はみんな数人ごとにテーブルを囲んで、食事が終わっても楽しそうに時間までおしゃべりをしている。
でも、彼女はひとりぼっち。
食事が終わっても、その席で、持ってきた本を読んでいる。
だから、俺でも声をかけてやらなきゃと思っんだ。
「それ、面白いかい」ってね。

彼女は、意外にも、
「私に何か用」って感じでこちらを見たよ。
俺も負けずに、もう一度、
「その本、面白いかい」って繰り返してやった。
彼女は、
「ええ」とだけ。
そして、また本の上に顔を伏せてしまった。
心の中では、チェッと思ったけど、まあいいさ。
別に付き合ってくれってわけでもない。

次の日、出勤するとデスクに見覚えのある本があったんだ。
「貸してあげます」
とメモが乗っている。
「それ、あの子が置いていったわよ」
向かいの席の女子が、顎で指し示した方を見ると、彼女がこちらに背を向けて、もう仕事を始めていた。
声をかけようかと思ったが、やめておいた。
まあ、いいや。

数日後、早めに出勤してその本を彼女のデスクに返しておいた。
出勤した彼女はその本を、少し眺めて、そのままカバンの中に入れた。
感想でも言えばよかったかもしれないけれども、読んでいないんだから仕方がない。
それに、そもそも本に興味があって声をかけた訳じゃない。
読書なんて趣味は俺にはないさ。
と言って、彼女に興味があったわけでもない。

翌日、帰りにロッカーを開けると、返した本がまた入っていた。
「面白いですよ」
とメモがある。
そんなことよりも、勝手にロッカーを開けられたことに腹が立った。
その本を持ってオフィスに戻ったが、彼女は帰った後だった。
そのまま、彼女のデスクに叩きつけるように置いて帰ったよ。

翌朝、出勤して見ていると、彼女はその本を手に取り、パラパラとページをめくっていた。
そして、少し首を傾げると、そのままカバンにしまった。
そうそう、もう俺のところに持ってこないでくれ。

次の日、彼女は欠勤した。

部屋に帰り、明かりをつけた。
ワンルームのベッドの上に、あの本が置いてある。
メモがあった。
「読まないの?」
どこだ。
あわてて、ベランダ側の鍵を確認する。
閉まっている。
インターホン。
俺は、ベッドの横で尻餅をついた。
そんなつもりじゃなかったんだよ。
ドアが激しくノックされた。
俺の叫びをかき消すように。

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