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『テロリストの孫』

祖母がテロリストだったと聞いたのは、わたしが幼い頃だ。
わたしがものごころついた頃に、聞かされた。
特にある日ある時にわたしに向かって話されたのではない。
それは食事の後や、テレビを見ている時に、世間話のようにして語られた。
それを生まれた時から聞いているうちに、わたしにものごころがついて理解できるようになったということだ。
だから、わたしが生まれる前にも、わが家ではそのような会話が日常のものとして交わされていたのだろう。

ちなみにわたしの家族は母子家庭だ。
父親の顔は知らない。
母もそうだった。
力仕事の時などは、
「男手があればねえ」と祖母が愚痴をこぼすと、
「お母さんのせいよ」と母が言い返す。
そして、
「まあ、この子が大きくなれば」とふたりでわたしを見つめるのだった。
いい男を連れてきなさいよと、その目ははっきり語っていた。

祖母はテロリストではあったが、実際にそのような行為に走ることはなかったらしい。
準備をし、訓練をしている間に、活動は下火になり、尊奉していた政治思想も時代遅れのものとなった。
だから、祖母は、思想ではなくて、爆弾の作り方だけを母に伝えた。
そして、それがわたしに引き継がれた。
「革命に興味なんかなくても、知っていて損はないからね」
ふたりは口を揃えた。
こんなものが役に立つことがあるのか。
覚えた頃には、わたしはもうそんな疑問を抱くほどの歳になっていた。
爆弾を作れることが、人に話すことではないこともわかる歳に。

10代も中頃になり、恋をした。
彼を家に連れて来た時には、祖母も母も、今までに見たこともないほどそわそわしていた。
そして、珍しく、わたしにも笑顔で話しかけた。
そのわざとらしさと言ったらない。
それでも、楽しいひとときではあった。
いつもは着ないような服に着替えて、よそ行きの言葉で話す祖母と母。
インスタントのコーヒーしか飲まないのに、どこで調達して来たのか、紅茶をしかもポットから注いだ。
甘いものといえば、大福やみたらししか食べないのに、いちごのショーケーキまで出てきた。
いちごのショートケーキというのが、ありきたりではあったけれども。
彼が帰った後も、
「いつから」
「きっかけは」
などと質問攻めだ。
挙句の果てには、
「どこまでやった」
などと。
そして、口を揃えて、
「あんな子がうちにいてくれればねえ」

ある日、彼の家が爆破された。
誰も家にはいない時だった。
「まさか」
ニュースを見ておろおろする祖母と母を尻目に、彼に電話をする。
「泊まるとこが無いのなら、うちに来なよ」

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