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『初夏を聴いたら』 # シロクマ文芸部

初夏を聴くのは、口で言うほど簡単じゃない。
初秋、初冬、初春、いや、春の場合には早春かな。
それらを聴くのは、たやすいことだ。
だが、初夏となると、そうはいかない。
そもそも、初夏とはいつなのか。
夏の初めじゃないかと言うだろう。
では、梅雨はどうなのか。
世の中は昔から、梅雨の始まる直前が初夏であるとする説と、いやいや、梅雨が明けてすぐが初夏であるとする説とに二分されてきた。
あなたは、さて、どちらかな。
いえいえ、答えなくても結構だ。
かつては、この両派が日本中で戦いを繰り広げたのは知ってるだろう。
そんな争いに巻き込まれることはない。
今じゃもうそんなことはないだろうって。
油断してはいけない。
まだまだ、梅雨前派と梅雨明け派は我々の意識の中に根強く眠っている。
昔の京都なんかでは、これを葵祭派と祇園祭派と呼んで区別していた。
だから、葵祭派が初夏を聴いたと言っても、祇園祭派は、
「まだまだ初夏やあらしまへん」
祇園祭派が初夏を聴いたと喜ぶと、葵祭派が、
「今頃何を言うたはるんどす」
そんな調子だ。
笑い話じゃない。
都を焼け野原にしたあの戦いも、元はこれが原因だと噂されている。
だから、迂闊に初夏がいつかなんて言わない方がいい。
もう、あんな争いはごめんだ。
毎年、梅雨入りの頃から明けるまで、あっちこっちで凄惨な殺し合いが行われた。
親も子も関係ない。
私だって危うく弟にやられるところだった。
血で血を洗うってのは、まさにあんなことだ。
たかが初夏でと思うだろうか。
だが、争いってのはそんなもんだ。
それにしても。
そう、それにしてもだ。
あの戦いで我々に残されたのが聴覚だけだとは。
聴くこと以外の感覚をいっさい失ってしまうとは。
そうだ、長い争いの果てに気がつけば、見ることも、嗅ぐことも、味わうこともできずに、音だけの世界にいたのだ。
まあ、触覚が残ったのがせめてもの救いだろうか。
あなたたちは知らないだろう。
かつては、目で見て、匂いをかいで、舌で味わっていたことを。
もちろん、美しい音楽を楽しむこともあった。
しかし、あなたたちときたら、生まれた時から、聴くことと触ることしか感覚はないんだから。
季節を聴くなんてことは、たかだかここ数百年のことに過ぎない。
私があなたくらいの頃はそんなことは言わなかった。
昔は、季節ってのも、その移ろいを目で見て、草花の匂いをかぎ、旬のものを味わう、そうしてからだ全体で感じてきたものだ。
それが、今じゃ、聴くことしかできない。
見ることも、嗅ぐことも、味わうこともできない。
ただ、生きるために口の中に何かを入れるだけ。
別に、あなたが悪いわけじゃない。
もちろん、私のせいでもない。
でも、初夏だけは、今でも気をつけた方がいい。
初夏を聴いたと思っても、黙っておくのが得策だ。
悪いことは言わない。
えっ、昔のことをさも体験したように話すだって。
さてさて。
あなたは、今聞いている事を話しているのが人間だとして、その人間が常に目の前いると思っているのか。
ふん、見えないくせに。
声なんてものは、所詮空気の揺らぎ。
ただ、その揺らぎがどこにもぶつからずに、何十年、何百年もさまよい続けて、今やっとあなたの耳にたどり着いたとしたら。
そうだ。
あの星のようにと言ったところで、見ることのできないあなたにはわからないだろうが、この声があなたに届く頃には、私だってこの世にいるかどうか。
あなたの聴いたという季節だって、もうこの世のものかどうかはわからない。
とにかく、初夏を聴いても、黙っておくことだ。


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