見出し画像

猫に関する弁明

まさか、自分が猫シューターになろうとは、夢にも思わなかった。犬が好きで、父が飼っていた歴代ワンコの写真は無駄に増やしてきたが、好き好んで猫にカメラを向けようと考えたことは無かった。

しかし、この春から猫に目が向くようになった。理由は簡単。我が家で猫を飼うことになったからだ。もう少し正確に言うと、誰も世話をすることができなくなった猫を引き取ることになったのだ。

その猫は、猫の中でも重度に警戒心が強く、あちらから近づいてくることは無い。妻にだけは、うちにくる少し前から餌を与えられてきた恩義があるため、相対的になついているようだ。それはそれでシンドイことだと彼女は言うが。

物心ついた頃からずっと家に犬がいたため、私は犬派である。吠える犬もフレンドリーなやつかどうか、顔を見ればなんとなく分かる。また私の記憶には無いが、子どもたちの証言によると、たちに負えないほど歯をむき出しに吠える義兄の小型犬に「イエス・キリストの御名で静かにしろ!」と叱りつけて黙らせたことがあるらしい。

要は、犬は好きだし、犬たちとの交流にはそれなりに自身がある。しかし猫は、正直なところ何を考えているのかまったくわからないのである。

山奥にあった母の実家には、祖父母と一緒にいつも灰トラがいた。かなりおとなしい猫だったと思うが、犬とはずいぶん勝手が違った、

まず抱きかかえようとすると何かの拍子に爪が当たる。幼少の私にはそれだけで凹むに十分だったが、下手をすれば不機嫌さを隠さずに引っかいてくる。また犬に比べて表情に乏しいため、いま触ったり抱きかかえたりしても良いのか、あるいはご機嫌斜めなのかは、表情から窺い知ることができなかった。

そんな幼少体験のせいか、毛に覆われているという犬との共通点のゆえに猫がかわいいと思うことはあっても、お近づきになりたいとかぜひ飼いたいとか思ったことは、四十数年の人生で一度たりとも無かった(はずだ)。

しかし猫を引き取ることが確定的になってから、僕の心の中にそびえる対猫防御壁には微かなヒビが入り、そこから静かに決壊していった。そこには、僕の義母に対する敬愛も加担しているのだが。

私の変容を示してみよう。そう広くはない我が家の敷地内には猫の額ほどしか土の見える箇所は無い。そこに定期的に糞を落としていく猫どもは、以前は私にとってただただ忌まわしい獣でしかなかった。しかし最近は、顔を見ると相好を崩し、声をかけるまでになってしまった。

そしてある朝、ついに猫を自ら被写体として選んだのである。

医者から肝臓の脂肪を減らせと命じられてから、僕は起床後とりあえず家の周辺を歩くことにしている。すでに私の頭脳と決済から切り離すことができなくなったスマホとともに、たまにデジカメも携帯する。

朝は天気により、また季節により光が毎日異なるから、同じ町内でもカメラがあれば何やら漠然とした意味が込められていそうな写真を撮った気になれる。私の写真には基本的に非生物しか写り込まないのだが、先日からその中に猫が登場するようになってきた。

どうせ飼うなら、仲良くなりたいのである。そして、そう思い始めると、世の猫のすべてと仲良くなりたくなってしまったのである。いや、それくらいせねば我々のもとにやって来る猫には心を許してもらえないと思ったのだ。

このような事情で、今夕もタバコ屋の自販機にお茶を買いに出たところで目があった猫にレンズを向けることになった。油断してデジカメは置いてきたので、スマホのカメラではあったが。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?