業務の属人化について、経営マネジメントから考えてみる
会社において組織マネジメントを考える際に悩ましいと感じるポイントのひとつ。
それは業務の属人化の問題です。
専門的な知識と数々の経験を活かせるスペシャリスト。この人がいれば大丈夫という安心感はとても心強いものです。しかしその一方で、その人がいないと何も進まない、何も解決しないということもあるわけで、組織マネジメント的にはリスクともなり得てしまうものです。今日はそんな属人化について向き合ってみたいと思います。
属人化の対義語は?
属人化の対義語を調べてみると、「標準化」という言葉が表示されます。
属人化が特定の人物に依存する状態であることに対し、標準化はマニュアル化とも捉えられるように誰もが同じやり方をすることで一定の成果を上げられる状態を示しています。
誰がやっても同じ成果が出るということは業務に安定をもたらします。標準化された業務を行う人材育成の効率化も可能となりますので、企業側からすれば目指したい組織形態とも言えます。
社員目線で属人化を考えてみる
その良し悪しは一旦おいておいて、まずは属人化されている業務を担う側の目線で考えてみます。
自分にしかできない仕事がある。自分の代わりになる人材がいない。故に誰からも頼りにされている、という状態である場合。おそらくですが当人にとっては満足感が高まる状態であろうと思われます。自分だけ、という状態は自己承認欲求もプライドも満たされるでしょうし、役職を超えた存在感や権限を有する場合もあり得そうです。
一方で、当人以外の人の目線で考えてみます。
知識と経験豊富な頼れる存在というのは頼もしい一方で、その人がいないと仕事が進まないという状況は好ましくない状態であるとも思われます。その人の言動によってはモヤモヤすることも多そうです。
もしかすると実は他の人でも出来得る仕事なのに、その人が抱え込んでいる、誰にも触らせないといった個人の意図的な思惑によって属人化しているケースもあります。そうなるとモヤモヤ以上のストレスや不信感にも繋がりかねません。この辺りはその人の性格というか人望といった要素も含まれるので厄介です。
一般的には属人化を語る場合はネガティブな意味合いが多いようです。私も基本的にはそのように思います。その理由もこのあたりから来ているような気が致します。
経営者目線で属人化を考えてみる
では経営者目線で考えてみます。
経営者によって考え方は様々だとは思いますが、私の考え方からすると属人化は嫌な状態です。その人がいないと仕事が進まないというのは困ります。計画的に休んでいるのならいいのですが、体調不良などで突然休むとなると業務進行に支障が生じるからです。
業務の支障が困るだけでなく、それによって生じるチームの不和も困ります。その不満は上司や社長に向けられることにもなります。
属人化による不満はまさにマネジメントが上手く行っていないことを示しています。さらに人材育成が出来ていないことも示しています。まさにトップのマネジメント能力が問われていることにもなりますので、絶対にあってはならないこと、というのが私の考えです。
しかし会社として何かに秀でたスペシャリストの存在は有難いと感じる意味も理解できます。その存在が皆の手本となるよきスペシャリストとなるのか、仕事を囲い込み組織を乱す存在となるのか。当人自身の考え方もあるとは思うのですが、そうなる背景として会社そのものの組織観、というよりも社長自身の組織観が原因となっている可能性もあります。
そのあたりのバランスをどう取るのか、社長の経営観が問われることも認識しなければならない気が致します。
標準化が正解なのか?
属人化がよくないとするならば、経営者としてはその対義語でもある組織、人材の標準化を図るということになります。
業務マニュアルをきちんと作り、人材育成プランを作って育成も行う。業務分担も偏らないよう配置する。突発的に誰かが休んでも、代わりができる社員がいて、必要な業務も補完できる。もし誰かが退職したとしても慌てることなく社内で補充が可能である。
経営側にとってはずいぶんと虫の良い話だな、と感じられなくもない書き方ではありますが、本音も言えばこうなります。
そして、それが果たして出来たとすればめでたしめでたし。
となるかもしれませんが、実はそうでもありません。
これはこれでとても違和感を感じてしまう。
近頃はAIなるものが発達し、標準化可能な業務に人的リソースを割く必要はなくなる!なんて話もありますが、そこまで意識の高い話ではありません。
均しく標準化された業務スタイルというのは、単に面白味に欠けるなあと感じるというのが理由です。
以前に業務のマニュアル化についての考えを書いたことがあります。
楽譜というのはその通りに演奏しなければならない、いわばマニュアルとも言えるものです。
しかし同じ曲であっても、実際に演奏を聞いてみると演奏者や楽団によってかなり異なった曲に聞こえます。
なぜならそこには演奏者や指揮者の解釈があり、意図があります。そしてその表現を可能にする技術の違いもあります。そうしたものも含めた個性が表現されているのです。
業務の標準化を成し遂げたとしても、実際にはそれを実行する人によって違いは生じます。得手不得手もあるでしょうし、相手との関係性や相性もあります。人がやることですから、やはり標準化しても全く同じになることはあり得ません。
むしろ成果の一定の安定性の上で、ある程度の個性というか違いが発揮された方が面白い。
相性もありますから、それによって好みの合う合わないを出せる方が顧客の満足度も高まりそうですし、組織内でもお互いの個性を尊重し合えるチームが作れそうな気も致します。
標準化を正解として終わらせるのではなく、楽譜のように一定の品質(メロディーとしては誰もが同じ曲に聴こえる)を担保しつつ、実務者によって個性が発揮されている。その個性の違いが様々な顧客のニーズに応えることになったり、思わぬ相乗効果が発揮されたり、ひいては新たなイノベーションに繋がるといった期待感がもてる、と私は思うのです。
標準化の上で人の個性が発揮できるということであれば、来るAI時代に人として対抗できることができるかもしれません。(AIはそんなレベルも簡単に超えられますよ、という意見はこの際置いておきますw)
属人化でもない、標準化でもない
属人化は避けたい、でも機械的に標準化すればよいというものでも決してない。というのが私のスタンスです。
例として楽譜の存在とそれを演奏する音楽家を挙げてみました。これは楽譜通りに演奏する前提であるいわゆるクラシック音楽の世界の話で、アドリブが当たり前のロックやジャズでは当てはまらないのかもしれません。しかしそれだとしても、曲名があり歌詞があり楽譜があります。その楽譜があってこそアドリブがあります。アマチュアやプロもコピーしたりカバーしたりできるのは楽譜、つまりマニュアルがあってこそです。そこにアレンジを加えることで異なった表現やメッセージを込めることができるのは、楽譜、すなわち標準化されたマニュアルがあってこそ出来ることだとすら私には思えてきます。
とするならば、属人化でもない、標準化でもない、とするならば、
第3の道を考えなければなりません。
機械的なマニュアルに対して、個性や技術の余地を大きくできるもののサンプルとして、楽譜を例に出しましたので、楽譜を意味する英語のスコア(SCORE)からとって、仮にですが、スコア化とでもしておきましょうか。
もう少し考えれば、もっと適した言葉を思いつくかもしれませんが、属人化でもなく、標準化でもなく、組織も個人も活性化して多様なアイデアが湧き出て、一定の質を保ちながらも、皆それぞれが状況に応じて最適化された解を導き実行できるような、そんな組織が作れたら。
私はそんなチームを指揮してみたいと思いますし、そのチームの一員でありたいとも思えてきます。
組織のスコア化(仮)のために
取り留めなく感じてきた事を文字にしているので、実際にこうして成し得たというものはありません。
属人化した時のこと、標準化をした時のこと、それぞれの経験があります。その経験を改めて俯瞰して考えてみて、自分が感じていた戸惑いや違和感を整理してみたら、こんな文章が浮かんできたというレベルの話です。
ただそんな考えを巡らせてみて改めて思ったこと。
それは、属人化か標準化か、という二者択一で悩むのではなく、属人化でなく、標準化でなく、という俯瞰した考察が必要なんだろうなあということです。
〇〇か、☆☆か、ではなく
〇〇も、☆☆も、と欲張ってみる。
そのために俯瞰して整理してみる。
そこから何か新しい◎◎が見えてくるかもしれない。
そんな展開にワクワクする自分がいるのです。
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