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会社に必要なルールとは何か?

私は基本的には規則という意味でのルールはあまり好みません。「人それぞれ」の考え方が強いので一律なルールにて縛られることは勿論、縛ることも苦手です。もちろん社会生活をしていく中での一定のルールの必要性は充分に理解していますので、ルールそのものを否定はしていません。最近よく耳にする「ブラック校則」のようなあまり合理性を感じられないルールや、はるか昔に作られた今の時代にそぐわない法律。それから個々の判断を求めることなく思考停止を招くようなルールを苦手としていると言えば、なんとなくニュアンスは伝わりますでしょうか?
しかしもうひとつ、別の意味でルールは会社にとても重要だと思っている観点があります。

ルールとは?

例によってまずは辞書を引いてみます。
ちなみになぜ辞書から始めるかというと、言葉の意味というのは結構曖昧で、解釈も実はひとそれぞれだったりすると思っているからです。前提となる言葉の意味がずれていると、そのあとに議論したり論考しても話が噛み合わず不毛な平行線をたどることがよくあります。なので、まずは辞書で一般的な定義を共有してから議論を始めるのが私の進め方であり、実は今回のテーマにも大きく繋がる話でもあります。

【ルール】
会議・運動競技などを公正に行うために決めた規則

新明解国語辞典

私的にはとても明解に記されています。なぜならここに既に「会議」の文字が入っているからです。運動競技のルールは誰しもが想像できると思われます。しかし国語辞典の説明で、ルールという言葉の意味に会議を公正に行うために、と記されているとは思わなかったです。会議にはルールが必要というのが辞書からも分かります。

さて、皆さんの会議ではルールが決められていますでしょうか?
「何を今更、当然だ」
という方ももちろんいらっしゃることだと思います。

しかし、中小企業だったり或いは業種、会社によっては
「なんとなくのルールはある気がするけど、明確にルールとして示すものはないな」
なんて会社もあると私は思っています。

ルールがないと、皆が好き勝手に発言したり、時には関係のない話を始めたりして収拾がつかないなんてことは非常によくあります。
よく耳にする話では、声の大きさや威圧感のある態度で結論が決まるというケースもありそうです。もし、発言者の声の大きさで決議をするという会議ルールが決まっているとしたら、参加者はその内容ではなく、ただひたすらに大声で意見を叫ぶようになってしまう。そんな会議、納得できますか?私は嫌です。だいたいうるさくて5分と会議室にいられません。

実際に検索してみると、会議のルールについての記事はたくさんありますので、実際に活用している会社は多いはずです。しかし一方で、ルールがないとか、有っても守られていない、とか、ルールが変だ、なんていう記事もたくさん出てきます。
ルールがあることを知らなかった、という話しもありました。

スポーツのルールは明確で、プレイヤーだけでなく観客も把握しているケースが多いと思いますが、誰もが身近で且つ自分もプレイヤーとなり得る会議において、そのルールが上手く活用されていないというのは中々由々しき問題とも言えそうです。

明文化、慣例化

さて、会社や組織によって、こうした会議の進行がルール化されている場合もあれば、中には社長が「私がルールブックだ!」といって全てを仕切っているケースもありそうです。皆が納得しているのであれば、後者であってもよいと思っています。それが社長の権限でもあり責任も明確だからです。(失敗の責任だけは担当者というケースは除きますが)
そしてそれがルール化されているか、少なくとも社員皆が共通した認識を持ち、一定以上の納得感があることが大切だと思います。

私が困るなあと思うのはルールが共通認識になっておらず、なんとなく慣例化していることです。本当のルールは誰も知らないという状況です。

例えば新人が初めて参加する場合があったとしたら上司や先輩が事前に教えます。しかしそのルールはその上司や先輩の解釈だったりするのです。他の上司や先輩が同じルールと認識しているとは限らない。直属の上司に教わったルールに従って参加したはずが、他の上司からルールの観点で叱られたり注意を受けたりすることもあり得るのです。

時には機嫌の悪い社長が思いつきで口にしたことで、慣例化されたルールがしれっと上書きされるなんてこともあります。先週とは言ってたことが違っていても、今社長が言ったことでルールはなんとなく更新される。しかし明文化されることもないので、他の参加者の認識は実はマチマチ。会議後の廊下で「あれってどういうこと?」「次からはこうした方がいいってことだとよね?」なんて探り合いが始まります。

私自身も懴悔すれば、思いつきで発した言葉で会議のルールを暗黙の了解化したことは多々あります。そして社員は次回からは忖度してくれるのですが、実は発した本人は思いつきなので忘れています。さらにその時の思いつきで別の言葉を発して、またしてもルールを上書きしてしまった(ただし社長本人はその意識ゼロ!)こともあります。

そういう場合、私の場合は幸いなことに気を利かした幹部が後から確認してくれたり、注意してくれたりして軌道修正が図れて収拾できたわけですが、そういう幹部がいない場合は永遠にルールが変わっていく。むしろルールのない独裁となってしまいます。もはや会議ではありません。

細かな服務規程のような規則については、私は好みません。
しかし、会議のような本来重要なシーンにおいてのルールというか規則については、私は必要だなと思います。
だってその方が話しもスムーズですし、トラブルも最小限に食い止められると思われるからです。

ルールが必要なのは会議だけではない

私がルールが必要だと思ったのは会議だけではありません。いわゆる自社のビジネスモデルを遂行していく上で、一定のルールが必要だと感じていました。

私は通販会社を経営していましたので、一般消費者に商品を販売して売上と利益をあげることが会社の業務となります。しかし担当する業務、役割によって仕事をする上で大事なことというのは少しずつずれがあります。

例えば新商品を作る部署は新しい商品を作る。そのためには今までやってこなかったことをやろうとする意識が働きます。市場状況やデータに基づきはしますが、そこから新しい仮説を生み出して今までにないことを作ろうとします。私も社長として攻める企画を求めます。

お客様対応をする部署は、お客様と電話や文書を通してやり取りをします。相手はお客様なので、当然お客様にご満足いただき、ご理解いただき、ご納得いただけることが大事になります。新しいことというのは未経験と重なりますのでどうしても不安感が生じます。想定されるクレームを洗い出して対応問答集などを作ってみると、基本「万が一」も想定しますので、守りを固める意識が強くなるケースが見られます。

企業本来のゴールとしては、各社それぞれが掲げる理念やビジョンといったものがあるはずで、そこを目指して全部門、全役員、全社員が業務に励むことになります。しかしゴールは同じでも各部門の役割によって、上記のような部門ごと、人ごとの差異が生じてしまう。それが会議だけでなく、日常の業務や連絡確認といったところで食い違いを生みトラブルへと発生してしまう。

トラブルの解決に際しても、やはり部署ごとに重きとするところが異なるので、それぞれの「最善」も異なるケースが生じてしまうわけです。

理念の実現に向けてどのように進むか、何を良しとして何を悪しきとするか。そういった観点からルールというものを考える必要もあるなあ、なんて思います。

ルールを適切に運用するために

私がルールを好まない理由として、単純に意味が分からないと感じるものが多いというのもあります。理由があって合理性があるルールは必要だと思っていますし、自ら制定することもありました。しかし実際には意味の分からないルールって世の中多いんだよなあと感じます。

業界の慣例、会社の伝統、トップの好き嫌いなどなど。
慣例や伝統には元々はしかるべき理由があったかもしれませんが、それが今なお必要かは別の話です。続けていることに意味があるのかは、常に問うた方がよいと思います。そして意味がなく、合理性もなく、それでいて皆が厄介に感じていたり、面倒に感じていたりするなら、そういうのはサッサと失くした方がよい。
社長の好き嫌いも決してダメではないと思っていますが、社員にとってあまりに不合理なものであるとするなら、社長自ら撤廃してあくまで私的な好き嫌いとして大切にされればよいと思うのです。

そのためにも、「このルールなんか変じゃないですか?」と、役職や年齢などに関係なく、お互いに意見ができる環境が大事だよなあと思っています。
異なる意見で割れる時があれば、そこは皆の納得感を目指して丁寧に対話していくしかありません。いちいち皆で対話なんて時間がかかるし面倒だと思われるかもしれませんが、皆が納得感を持てれば、その後は圧倒的に、天と地の差があるのではと思うほどラクになります。
ルールはみんなを縛るのではなく、みんなをラクにする考え方で向き合いたいな、と私は思っております。


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