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自由と規律

自宅待機生活の2日目です。本日のタイトル『自由と規律』は仰々しく、少々大袈裟ですが、この数時間内の思い付きによる散文です。

規律あっての自由

『自由と規律』ということばから思い浮かぶのは、名著と言われている池田潔『自由と規律: イギリスの学校生活 』(岩波新書1949)です。

大学時代に受講していた教科(講座名は忘れました)の課題図書に指定されていたので、購入して読みました。英国伝統のパブリックスクールで行われている教育を題材に、自由の意味、規律の意味について深い考察を行った書です。読んだのが30年以上も前ですので、詳細については最早覚えておりません。

池田氏のような深い考察には及びません。『規律あっての自由だよなあ……』と思っている、というふわっとした所からはじめます。

何の制約もない自由は苦痛

私は、誰からも、何からも制約がない自由な生活を与えられたら、ゆっくりと破滅していくタイプの人間である、と断言できます。自制できる幅が狭く、際限なく怠惰で、歪んだ日常に陥ってしまい、歯止めのない凋落の沼にゆっくりと堕ちていくと思います。弱い大衆なのです。

行動を監視されたり、いちいち干渉されたりすることには、人一倍強く抵抗を感じる一方で、何もかも好きにしていい環境だと何をしていいか選べなくなってしまいます。無計画にいきあたりばったりで行動して、後で落ち込む場合が殆どです。細かな規則でがんじがらめだと煩わしく感じますが、大きな枠くらいは与えられていないと不安で、戸惑ってしまいます。

誰にも迷惑がかからない場面では、徹底的に自分に甘く、踏ん張ることができないという人間的な弱さが顔を出します。なんとか自制・自浄、自律が発揮できるのは、飽く迄も周囲の目が気になるからであり、自分の内面の正義感や利他の心から沸き起こってきたことが原動力になるケースは非常に稀です。

経験上、細かな行動の制約がある状況も確かに苦痛ではあるのですが、それ以上に辛いのは、「なんでも好きにしていい」というシチュエーションです。そういう風に相手に言う人には、社会的成功者や実力者が多いです。その相手に全く期待していないか、その相手の人間性や性根を注意深く観察しようと試している場合が殆どです。そして、自分のお眼鏡に叶わない行動を取る人とは、静かに距離を置き、縁を切るのです。自由にやりたい放題に振る舞った結果、信頼と信用を喪い、失墜するという悲劇が待っているのです。

必要最低限の規律を学んでおく

さすがに、「自由に生きろ」ということばを額面通りに受け取る人は稀でしょう。力強く「自由に生きろ」という人にとって、人間として最低限縛られなければいけない規律があることは自明なので、わざわざ条件出しをしないだけです。

何を規律と考えるかの個人差は大きく、レンジの広い人によってはOKな行為が、狭い人によっては、逆鱗に触れるケースも少なくありません。自分の価値観と世間の価値観が完全に一致してしまっている生き方はつまらないものの、あまりにもアウトローな社会不適合な考えを行動指針に据えると、極めて生き辛くなります。

自分なりの規律は決めておくべきです。規律の中身は、時代や年齢や状況によって、柔軟に変化させていいと思いますが、規律を全放棄する態度だけは厳に慎もうと思った次第です。

このような当たり前の話でも、自分の脳に過った感情と考えを言語化しておかないと流されてしまいそうなほど、最近の私は意志が弱くなっています。この待機期間も油断すると、徹底的に易きに流れ、社会不適合者化してしまうのではないか、という恐怖があります。

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