見出し画像

期待外れでもいいじゃない

本日は『期待外れでもいいじゃない』という開き直りのようなタイトルで自由作文を書いていこうと思います。着地先をあまり意識せずに書き進めていくので、どこに向かうのかちょっとドキドキします。

湘南海岸でビーチクリーン

今日は朝から辻堂海岸でビーチクリーン活動に勤しんできました。好天に恵まれ、私たちのグループが清掃作業を行ったビーチも、多くの海水浴客で賑わっていました。

日焼け対策に薄手の長袖パーカーをひっかけ、短パンにビーチサンダル、首にはタオルを巻き、両手にはトングとビニール袋を持って、小一時間ほど汗を流してきました。30℃を超える真夏日だったものの、海からの風が心地よく感じられたので、爽快感がありました。むしろ前回の6月の時の方が、日差しがきつく感じました。

私たちのグループは、主にマイクロ・プラスチックごみの収集に重点を置いています。細かく砕かれたプラスチック製品の破片を、砂の中から黙々と一つ一つ拾い上げる作業は地味ですが、作業中は「生きている」と感じられる瞬間です。私は、自分のメリットの為に清掃活動に参加しているのです。

数か月に一度やってきて、小一時間でビニール袋満杯にも満たないゴミを拾い上げたところで、巨大な砂浜の清掃には焼け石に水でしょう。効果の薄い偽善行為であり、所詮は自己満足に過ぎないのかもしれません。しかし、こういう時間を持つことは、私の精神衛生上いいなあ、と考えています。

「期待するから外れる」…問題

私は幼少の頃から、しばしば自分の可能性に過剰な期待をしてしまって、その期待に遥か遠く及ばずに、悔しい思いをする経験を何度もしてきました。挑んでいる途中で自分の期待値を下げているのに、その下げた水準にすら到達しないという経験をすると、更に気分の落ち込みは激しくなり、失望の程度も大きくなっていきました。

私の人生にとって特に重要だと信じて踏ん張ってきたことが、自分の期待するレベルに達しないとわかった時は、自分の不甲斐なさをなじり、自己否定する気持ちが強くなり、情けなさで自暴自棄になりました。客観的に見ればそれが当然の報いで、必要な挫折であったのだとしても、そんな惨めな経験はなしで済ませたかったというのが本音です。

そもそも期待なんかするから、外れた時に嫌な気分になるのであって、最初から期待などしなければいいのだと考え、実践していた時期もありました。置かれた場所で咲きなさい、と自分に言い聞かせ、受け容れる勇気を持つのは、傲慢になりがちな自分を律するのに必要な態度だったと思います。

常に自分にとっての最悪な状態を想定し、必要以上に落ち込まない備えをしておくことは精神崩壊を招かないためには役立ちました。事前対策を打つことで楽に生きられるようになった反面、それとは引き換えに随分と毎日がつまらない、と感じる瞬間もありました。

期待が外れることを楽しむ

最近、再び自分に期待をかけるように意識を転換しました。今更ながら、自分自身に期待をかけておいた方が、心が明るくなることに気付きました。期待を裏切られた時の落差はその分大きくなりますが、踏ん張って許容するようにしています。

今回が四回目となるビーチクリーン活動は、参加する度に、自分にしっかり期待しよう、という気持ちを呼び覚ましてくれます。小一時間、限られたエリアの、自分の目についた範囲のゴミだけを拾い上げて、ゴミ集積場に持ち込むという行為が、本当に世の中の役に立っているのか、疑問はあります。集めたゴミの焼却処分に要するコストの方が、ゴミを放置して砂浜に眠らせておくよりも高くついているかもしれません。

それでも、自然界では生成せず、半永久的に海を漂い、砂浜に残り続けるプラスチックゴミを拾いたい気持ちが、今の私にはあります。何もしないよりは確実にましだろう、安全で快適な砂浜や自然体系を守ることに微力ながら役立っているだろう、と期待しています。

期待が外れても、また次の期待をします。落差を肯定しよう、湧き上がる喜怒哀楽の気持ちをしまいこまないように意識しよう、何度裏切られたっていい、そうやってもう一段強くなろう…… とまるで20代の青年のような決意をしています。

サポートして頂けると大変励みになります。自分の綴る文章が少しでも読んでいただける方の日々の潤いになれば嬉しいです。