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希待する夜

明日は仕事を休むので、1月のプチ旅企画を発動し、これから松本〜京都行きの深夜高速バスに乗ります。アパートから松本市街地に徒歩で出てくる間は、先週10日から聴いていなかったVoicy 『荒木博行のbook cafe』をイヤホンを通して味わいながら、歩きました。

手袋をはめ、マフラーをグルグル巻きにする防寒対策を講じて歩きながら、そのうちの一つに耳を傾けました。それが、本日の記事のテーマ『希待』という造語を扱った回でした。

期待と希待で大違い

普段、何気なく使っている期待と、この放送回で扱われていた希待は、意味も違うし、漂ってくるニュアンスも大違いです。

世の中の多くの人が、頼んでいない他人や社会からの期待に苦しんで、心を直撃されています。一度や二度なら平気で耐えられる人でも、それが何十回、何百回、何千回の頻度になってくると、蓄積したダメージで、疑問が沸いてくるものです。

その期待、誰の為に叶える必要があるのか...

という疑問です。「期待している」というふわっとした無責任なことばに傷つけられるのです。期待の意味を何度も問い、答えを見つけ、慌てて打ち消し、やがて悟るのです。期待とは、ある意味身勝手なことばだと...

それに対して、希待という造語は、この放送回で初めて知りましたが、美しいことばだと感じました。方向性を定めない、希望を持つ自由さは、これから先も担保しておきたいものです。

欲しかったことば、希待

希待、ということばは、じわじわと押し寄せてきます。私は、長い間このようなことばを探していたのかもしれません。

自他ともに、期待をかけることは止めて久しいものの、希待の炎は燃やし続けてきました。これから先も、明日は決して諦めません(Don't Stop Believin')。

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