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ミドル・オブ・ザ・ロードに立つ人の死角

本日の記事も、ネット記事からヒントを得て、自分の感想を語る内容です。元ネタは、コラムニストの矢部万紀子氏が、山下達郎さんが先日自身のラジオ番組で語った内容についてコメントしているAERAの記事です。


奥底に横たわっている『ミドルオブザロード』

私は、ジャニー喜多川氏の性加害問題が大きくクローズアップされるきっかけとなったBBC制作番組のYouTubeも観たし、山下達郎氏がラジオ番組で行たコメント内容もRadikoを辿って後追いで確認済です。状況は何となく把握していました。

矢部氏が、山下氏のコメント、立ち位置の問題点として指摘したのは、

● 山下達郎氏は、性加害問題の重大さ・深刻さを頭では理解しても、本当のところではわかっていないように見える。
● これだけ次々と証言が出てくる状況で、「何も聞かされていない➡コメントしようがない」という立場でいいのだろうか?
● 最も言いたかったのは、性加害は許されないが、ジャニーさんへの尊敬と感謝の念は別、私は縁と恩を大切にする人間だから、ということだろうが、最後のことばは開き直り、脅しのようで怖かった。

記事より要約

といった点で、多くの批判的な意見と大差がないように感じました。ただ、山下氏が、性加害問題をどう捉えているかの憶測として、

「ミドルオブザロード」の限界

という指摘をしている点は、ユニークだと感じました。

矢部氏は、山下氏が、一般論としては性加害を否定する感性を持ち合わせていることは認めるものの、傷ついているひとりひとりの心情にまではおりていけていない…… その背景には山下氏が、類稀な音楽センス+商業的成功=自分への強い肯定感、を持つ人であり、社会の多数派を占める「男性」として、ミドルオブザロードに立っている人間であることも影響しているかもしれない、という風に分析しています。

真ん中にいればいるほど、自分から遠い人が見えなくなる
大文字の「少数者」は見えるけど、小文字の「少数者」は見えない

という表現は、なかなか考えさせられます。

偏ってしまう思い

私は、ジャニーさんの事情は一切知らなかったとする立ち位置やリスナーを突き放すような怒気を孕んだ最後の一小節、には違和感を覚えたものの、山下氏自身にそれ程シリアスな問題があるとは捉えていませんでした。

山下氏の音楽的才能と残してきた楽曲は素晴らしいと思っているので、バイアスがかかり、どうしても好意的に見てしまいます。また、ジャニー喜多川氏の抱える性加害問題と、彼が発掘し、精魂込めて育て上げた才能たちと日本のエンターテインメント業界に残した絶大な功績とは切り離して捉えるべきだ、という意見には同意します。私自身が、一般的に「性加害問題は絶対に許されない」と理解はしていても、声も上げられず、気持ちを踏み躙られ、実際に傷ついてきた人たちの事情や心情にまで寄り添えていないのは事実でしょう。

矢部氏の「ミドル・オブ・ザ・ロードの限界」論に、心底の賛同はしていません。自分にとって特別な関係にはない人の苦境や不幸にどこまで自分を投影すればいいのか、果たして投影できるのか、甚だ自信がありません。ミドル・オブ・ザ・ロードに立っていようが、立っていまいが、死角は完全に消すことはできないでしょう。見ようとするものしか、見られない人間、見たいと思うようにしか、見えない人間が殆どだと思います。

仮に、私や私の息子が実際の被害者であったとしたら、今起こっている状況に便乗して、躊躇なく積年の思いを声高に主張する行動を取るでしょう。自分の優位な立場を利用して弱い立場の人間を従属させてきた人間を厳罰する方向に、世論を動員する手助けだって厭わないでしょう。

違う立場から、自分の死角を指摘された時、虚心坦懐に受け容れ、真っ当に考えられる素直な気持ちを宿していればいいように思います。


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