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過去の私を超えていく! の罠

本日のnoteでは、朝のWalking中にVoicyを聴きながら、ふと思い浮かんだことを膨らませてみます。

「他人と自分を比べるな」というアドバイス

「他人と自分を比べるな」は、自己啓発本や人生相談などで、しばしば出会うことばです。

輝いている他人と燻っている自分とを見較べて劣っていると思い込み、自分を卑下して思い悩んだり、学業や仕事の分野で優劣を競って疲弊したり、はよくある光景です。他者との比較で必要以上に落ち込んで、自分を見失いそうになっている人へのアドバイスとしては適切かもしれません。

そして、比較するのならば過去の自分を振り返って、少しでも前に進んでいる自分、成長している自分を目標にしてみよう! というニュアンスのエールが添えられている場合も少なくありません。他人と競うのではなく、現在や過去の自分を乗り越えていく、という発想です。

ある分野では他を圧倒する実力の持ち主で向かう所敵無しの人間が、「ライバルは自分自身」と定めてストイックに努力する姿勢は、感動的に映る場合も少なくありません。

いつの私を超えていくの?

他人と自分とを比較して、自己否認の念に苛まれるのは避けた方がいい態度だと思います。自分なりの目標を定めて、地道に努力を積み重ねたり、改善を行ったり、これまでの経過を確認して進む糧にしたりする姿勢は喪ってはいけないものです。

私もそう信じて、他人とあれこれ比べることは意味がない、挑むのであれば過去の私であり、少しでも成長している私を目指して歩むことがいいことだと思っていました。

本日歩いている最中に、ふと「とはいえ、いつの私を超えるべきなのか?」と思いました。「自分は過去にこれを成し遂げた人間。だから、自分はそれを超えてこれくらいまで到達するのが当然なんだ」という考えはちょっと傲慢ではないかと思ったのです。「いい時代」の自分と比べて今がイケてないと思うから、時折モヤモヤ感が襲ってくるんではないか、ということです。

右肩上がりで成長してないよ、きっと

スポーツは結果が如実に出るので、割と簡単に現実を直視できます。今の自分が、100m11秒台で走れていた頃の昔の自分を取り戻すことも、ホッケーの試合で前後半各35分集中してプレーすることも不可能だと諦めることができます。

ところが、人間性に関しては、少し複雑です。年齢を重ねて、10代よりも、20代… 20代よりも30代… 右肩上がりに成長していると思いたい気持ちがあります。円熟し、成熟し、何かを成し遂げ、価値ある人間になっていると思いたい気持ちがあります。

ただ現実問題として、具体的な夢・希望が持てず、人生を諦観する気持ちもある52歳の現在の私は、
● 何者にでもなれると信じ、体力充実、意欲満々、夢一杯だった22歳の私
● 結婚し、米国留学も決まり、期待に夢膨らませていた32歳の私
● 息子を授かり、仕事で重責を担い、責任感の中に生きていた42歳の私
よりも優れた人間になっているでしょうか? そもそも過去の私と競うことに意味があるのでしょうか? 

過去は少なからず美化されています。そんなことに囚われていては、心の平穏を脅かすだけにならないか… という疑問と恐怖を感じました。

「今のベスト」を意識する

今の私は、解放感の中で日々平穏で自由な時間を確保できます。ただ、将来への明るい展望を持てず、漂流しているような気持ちもどこかにあります。全力を捧げるものもなく、勤労の国民的義務も果たさず、無理もせず、社会に貢献していない後ろめたさもあります。

でもまあ、あんまりごちゃごちゃ考えずに、今の私ができることに専念すればいいのだろう… 少なくとも、過去の輝いてそうな妄想の中の私や理想の私をベンチマークして落ち込むのは意味がないだろう… と慰めます。

大切なのは、「今がベスト」を実現するのではなく、「今のベスト」を意識すること、です。それでいいと思います。


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