感受性を取り戻す訓練
本日は「感受性を取り戻す」というテーマで考えます。
生き抜く為に磨いた鈍感力
今の私の中には「無感動」「無関心」の気質があります。自分の脆弱な心を破壊されないための防衛的手段として、後天的に身に付けた気質です。
長年会社組織の中に身を置いた結果、いい仕事をするには、
✔ 喜怒哀楽は極力表に出さない、
✔ 言いたいことは言ってもいい相手とタイミングを見誤らない、
✔ 言い方には最新の注意を払い、内容は腹八分目で、
という原則があることを知りました。
「それって、なんかおかしいんじゃないないか……」と違和感を感じた時でも、自分が命を張るほどの重みがない案件と感じた場合は、周囲との間に不要な波風を立てず、結果を出すためには背に腹は代えられない、と諦めて受け容れた処世術です。
鈍感力は、何度か痛い目にあった経験から後天的に受け容れた技です。心から納得していないのに抑え込むことが多過ぎて、麻痺していました。もうそういう配慮の日々に疲れ、踏ん張る気力は枯渇してしまいました。
✔ 自分の熱の入らない仕事で人とは揉めたくない、
✔ 自分に無関心で冷淡な人に頭を下げて説得する気力が沸かない、
✔ 自分に敵対意識を見せたり、見下げたい人とは絡みたくない、
という気持ちの方が強くなっていました。
会社の中に私が本気で支えたいと思える上役も、私を本気でバックアップしてくれそうな有力者もいないことに気付いてしまってからは、何もかも鈍感力で対処するのはもう限界でした。地道に本物の味方や支援者を作る作業から逃げてきた私の責任です。
感受性が戻る瞬間
そういう生活を長く続けてきた結果、自分が感受性の豊かな人間だとは微塵も感じなくなっていました。ただ、数年前から意識的に芸術に触れる機会を増やしたせいか、最近は徐々に感受性を取り戻しつつある感触があります。
昔馴染んだ音楽を聴くと、感情が盛り上がって、頭にことばと映像が現れ、自然に架空の物語が紡がれていく錯覚に襲われる時があります。
インパクトのある絵画をみた時には、むしろ言葉を失って、無の境地になっていく時があります。肥大した知識が削ぎ落とされ、感情が剥き出しになる瞬間です。絵画展を鑑賞すると、後で酷く疲れを感じます。絵画が発している圧の刺激が強過ぎるからでしょう。
圧倒的な迫力の演劇を観劇すると、なぜか冷静さを取り戻します。極端な考えを反省し、素直なニュートラルな気持ちに戻っていきます。
バランスは守りつつ
元々持っている社会不適合者的な資質を封印して、28年半の間、組織に適合して貢献しようと奮闘してきました。それが、オトナになることであり、社会で認められ、居場所を確保するための最低限の義務だと信じて受け入れてきた価値観でした。
ひょっとしたら、多くの人が苦もなく出来ることに、私は人一倍苦労してきたのかもしれませんし、逆に無頓着過ぎたのかもしれません。
人生後半戦を愉しむことを意識しだしてからは、そのような苦痛を我慢して、社会的立場を維持し続けることに全く価値を感じなくなりました。それなら自分の感情が揺さぶられる感受性を取り戻す方が遥かに楽しいだろうと自由に振る舞う機会を増やしました。ゆっくりと、無敵になっていってやろうと目論んでいます。
感受性は環境を変えれば確実に戻ってきます。腹を括って捨てる勇気があれば出来ることです。その結末は私には保証できませんが。
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