見出し画像

怒られる人生、怒られない人生

どっちが幸せ?

本日のテーマ『怒られる人生、怒られない人生』を書こうと思いついたきっかけは、何気なく辿り着いたabemaTVの動画です。

それは、YouTuberのふわちゃんがゲストの番組で、動画の後半に「怒られない人生と怒られる人生とでは、どっちが幸せだと思いますか?」というナイスな質問が他のゲストからありました。

そこでのフワちゃんの「叱られてるのと、怒られてるのとの区別はついてる」という回答に感化され、この問題を真剣に考えてみようと思いました。

怒られたくない…

私は、これまで『怒られない人生』を目指してきました。『怒られない人生』の方がストレスが少なく、幸せだと信じてきました。怒られるのは気持ちがよくありません。怒られた相手を憎む気持ちが湧いてきてしまいます。

人生の早い段階で、私には周囲の人間を怒らせたり、むかつかせたりする素養があることに気付いていました。本当は自我も自己顕示欲も強いのに、変に目をつけられないように見た目や振る舞いを地味にし、空気を読む訓練をして、周囲に迎合する努力をしてきました。空気を読まない発言や振る舞いが求められている時は、意識的にそういうパフォーマンスもしました。

20代のある時期までは、怒る人を無条件に怖れていました。誰かが怒っているという空気感が好きではありませんでした。他人が怒られたり、叱られたりすることにも敏感でした。何をやれば怒られるのか、何をやらなければ怒られるのか、NGな作為・不作為、タイミングを学んで、自分の行動に反映しようとしてきました。理由はどうあれ、怒られるという状況を回避するのが最優先で、謙虚というより卑屈な姿勢だったかもしれません。

怒られてもいいや、への心境変化

はっきりと時期は覚えていませんが、ある時期から「怒られても受け流せばいいや」という心境へと変化していきました。今では、自分が信念を持ってやったことで怒られたとしても仕方がない、と受け容れられます。怒られた理由が理に叶っていれば受け容れるし、くだらないと思えば受け流せばいい、という傲慢な姿勢へと変化しています。

フワちゃんも言っていたように、相手が単に感情に任せて怒っているのか、自分のことを考えて叱ってくれているのか、の区別ができるようになったのも大きいです。怒ることでマウントを取ろうとする人とまともに向き合っていると疲れます。私のことを気に入らないと思っている人は、私のすること/しないことの全てが気に入らないので、距離を置くに限ります。

叱られる経験は大事

ただ、自分を思って叱ってくれている人の言動を受け流すのは、勿体無いと思います。面と向かって指摘や注意をされないとわからないこと、恥をかくことでようやく理解できることだってあります。有益な忠告や叱責に対して、感情的に耳を閉ざしてしまえば、改善・向上できる余地が狭められてしまいます。裸の王様から人はどんどん離れていくし、本当に誰からも相手にされなくなります。

叱られたのは、今となってはありがたい助言が多かったように思います。単に怒られただけの時は記憶からすっぽり消えていますが、叱られて、腹に落ちた内容やその時の状況は、クリアに思い出せます。

なぜフワちゃんのことばを好意的に聞けたのか?

さて、ちょっと本日のテーマからは脱線します。なぜ私はフワちゃんのことばを受け容れられたのでしょう?

それは、私はフワちゃんに対する好意的な認知バイアスを持っていたからでしょう。フワちゃんはぶっ飛び発言と行動が売りのタレントですが、機転も利き、実力もある…… しのはらともえさん、ローラさん、りゅうちぇるさんらの系譜の人(?)だ、という事前知識があったからです。

もしも私が、フワちゃんのことを全く知らなくて、いきなりこの動画に遭遇したら「誰やコイツ、生意気言うんじゃねえよ!」って拒否反応を起こしていたかもしれません。フワちゃんは「怒られてる時に相手を無視してディスっている時もある」っていう発言をしています。芸能事務所を馘になったエピソードは、社会人としては結構な非常識で、正直ひきました。

ことばは、何を言うかではなく、誰が言うかが重要』の一例なのかもしれません。

サポートして頂けると大変励みになります。自分の綴る文章が少しでも読んでいただける方の日々の潤いになれば嬉しいです。