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『東京物語』を観る

本日のnoteは、日本映画の最高傑作と評される『東京物語』の感想文です。

手を出せなかった名作

『東京物語』は、黒澤明、溝口健二とともに世界的に評価が高い映画監督、小津安二郎(1903/12/12-1963/12/12)の1953年の作品です。名作中の名作として知っていたものの、なかなか手を出せなかった作品でした。

小津安二郎は、1927年『懺悔の刀』から1962年『秋刀魚の味』までの35年間で54作品(現存するのは37作品)を残しています。庶民の日常的な風景を題材にした「小津調」と呼ばれる独自の映像世界・映像美をもつ映画を作り続けました。

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あらすじ

広島県の尾道で、二女・京子(香川京子)と暮らしている年老いた夫婦、平山周吉(笠智衆)・とみ(東山千栄子)が上京準備をする場面から、物語は始まります。

東京には個人医院を営む長男・浩一(山村聡)の家族、美容院を切り盛りする長女・志げ(杉村春子)の家族、戦死した二男・昌二の未亡人・紀子(原節子)が暮らしており、彼らとの再会を楽しみにしている様子が伺えます。

ところが老夫婦は、彼らが表面的には自分たちの上京を歓待してくれているものの、日々の生活に忙しく、うっすらと迷惑に感じていることを、彼らの様子から察してしまいます。唯一、紀子の親身の対応に心が癒される思いを感じます。変化を受け入れつつも、寂しさと虚しさを抱えながら東京での滞在を過ごし、尾道に帰ることを決意します。

尾道に戻るやいなや、とめが体調を崩し、そのまま亡くなってしまいます。尾道に集まってきた平山家の人たち。大阪で働く三男・敬三(大坂史郎)は出張のため、臨終の場に間に合いません。葬儀が終わると、浩一、志げ、敬三はそそくさと帰っていき、最後まで残った紀子と周平の印象的な会話を経て、話は静かに終わります。

家族の絆、夫婦と子供の微妙な関係、老いと死、人間の一生、それらを冷徹な視線で見事に描いた作品と言われています。70歳の老父、平山周吉を演じた笠智衆(1904/5/13-1993/3/16)は、この時はまだ49歳でした。『ありがとう』の言い方が独特で、何とも言えない哀愁が漂っています。

印象的な場面の数々

淡々と進むストーリーの中で印象的な場面が幾つかあります。

● とみが浩一の二男勇と川原で遊ぶシーンで、「勇ちゃんがお医者さんになる頃、おばあちゃんおるかのぉ」と言う場面
● 周吉・とみ夫婦が熱海の海を眺めながら、「そろそろ尾道に帰るか……」という場面
● 熱海の温泉宿の夜がうるさくて落ち着かなかったにもかかわらず、子どもたちに気を使わせまいと「よかった」という場面
● 周吉が旧友の沼田(東野英治郎)と酒を飲んで愚痴る場面
● とめが紀子に感謝の気持ちを伝え、「尾道に来い」という場面
● 尾道に帰る時にとめが、浩一・志げに「こなくていいから」という場面
● とめの葬儀で敬三が「何もしてやれなかった」と涙ぐむ場面
● 兄と姉の冷たい態度に文句を言う京子を紀子が諫める場面
● 周吉に紀子が自分は立派な人間ではない、と本音を吐露する場面

小津安二郎が描く世界

私はずっと小津作品からは距離を置いてきました。なかなか関心が持てず、作品を観たいという興味がわかなかったからです。

2013年に発売された雑誌、BRUTUSの小津安二郎特集は購入し、おもしろく読みました。でも、この時点でも世界で絶賛されている映画の魅力を深くは理解できませんでした。『東京物語』を一度観終わった今でも、小津作品を語れるような知識も熱量も持ち合わせていません。

現在の日本の映画・テレビドラマは、多かれ少なかれ、小津作品の影響を受けていると言われます。今ではあたり前になっている設定や物語の展開は、小津作品が作り上げたものが下地になっているとされます。

小津を深く慕ったのが、昭和を代表する二枚目俳優の佐田啓二でした。小津のお気に入りだった、松竹大船撮影所近くの日本料理屋月ヶ瀬の看板娘、益子と結婚した後、家族ぐるみの親交を続けました。佐田と益子の間に生まれたのが、中井貴恵と中井貴一の姉弟で、小津には可愛がられたようです。

小津は60歳の誕生日に亡くなっています。その翌年、その後を追うように佐田も37歳の若さで自動車事故で亡くなっています。

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