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『戦争の近現代史』を読む

本日は、保坂正康『戦争の近現代史 日本人は戦争をやめられるのか』(幻冬舎新書2023)の読書感想文です。


引き籠りの一日の最後に手にした書

今日は朝からアクティブに活動する計画だったものの、気分が冴えず一日引き籠りを続けて、貴重な休日が更けていきました。外出しようかと考えた時には、外は土砂降りで雷の音が響き渡る悪天候に変化していて、あえなく断念しました。こんな日もあります。

雨が収まった間隙を突いて買ってきたコンビニ弁当で夕飯を済ませ、食後に手に取ったのが、本書でした。

20世紀の戦争論

保坂氏は、20世紀をそれまでとは大きな相違点があった時代と捉えており、

全体的にいうならば、理論や哲学、あるいは科学的根拠など、知性、理性の面で動く世紀だった

P3

と書いています。価値観の大きな転換があったと考え、20世紀に確立されていった「戦争論」の特徴を、以下のように表現しています。

一. 戦争は「罪過」であるとの認識が広まり、政治的な解決手段ではないとの結論に達している。
二. 大量殺戮兵器が登場することで、戦争が人類破滅の意味を持つに至った。
三. 市民社会の成熟した形が出来上がり、ヒューマニズム思想が普遍化し常識となる。
四. 戦争は地域化し、世界的な全面戦争の形は取らない状態となった。
五. 戦争の産業化によってコストの側面から戦争の形態が考えられる事態となった。

P3‐4

その上で、2022年のロシアのウクライナ侵攻は、「核抑止力下の平和論」、「クラウゼヴィッツの戦争論」の妥当性が危機に瀕していることを裏付けており、新たな戦争の思想的根拠が求められている、という認識を保坂氏は持っていると思われます。本書はそれを考えていく書です。

日本人の戦争観について

私は、昭和史を自習するに際して、保坂氏の著書をよく参照しており、史観や思想にも少なからぬ影響を受けているという自覚があります。氏の主張の全てに与することはできないものの、視点の作り方や分析方法に馴染んでいることが少なくありません。

第四章 継承の原点としての「昭和後期」(P93-118)の中で、保坂氏は、近代日本には軍事哲学・軍事思想がなかったという分析をし、先の戦争が日本社会に残したものについての掘り下げが十分ではなく、過去の体験を単なる歴史談義として記録している「のどかさ」があったのではないか、という指摘をしています。

戦後の日本で「戦争は反対だ」と言う人たちに話を聞いていくと、いずれも戦争とは昭和十九年(一九四九)の十一月、十二月以降のことを話します。

P111

この指摘は、私もよく感じることです。太平洋戦争の全体像が、日本が劣勢となり制空権を喪って本土爆撃(その頂点に広島・長崎の原爆被害がある)を頻繁に受けるようになり、民間人に多数の死傷者が出るようになった時代の記憶に大きく引っ張られ過ぎていて、「だから戦争はいけない」という結論に傾いてしまっているように感じるのです。「戦争はいけない」の根拠が、身近な大切な人が死ぬのを避けたいから、というのは素朴で極めて人間的な感情だと思う反面、戦争に反対する理由がそれだけ、というのは、非常に危険だなあと疑問を感じてきました。

戦争の実体をインパクトの強い負のイメージだけで表面的に理解するのではなく、もっと深く、多角的な視点から理解していきたい、というのは私が学生時代から抱いていたことです。

当時の戦争指導者とて、戦争の悲惨さ、超大国アメリカと戦う無謀さを全く計算できないほど愚かであった筈がない、と私は信じています。それなのに戦争に踏み込まざるを得なかった理由、途中で過ちに気付いても引き返せなかった理由、を探り、自分なりに考えを巡らせることが大切だと思います。「戦争指導者が馬鹿だった。以上。」みたいな単純な断罪は意味がない、と思います。本書はその一助になってくれる筈です。

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