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入れ替え可能な存在であることを楽しむ

本日のテーマは、個人的に非常に重要だと考えている心構えです。最近になってようやく、自分が入れ替え可能な存在であることを、楽しめる心境に到達できそうな手応えを感じていますので、ここで言語化して、信念を強固にする一助になればと願います。

特別扱いされたかったあの頃

何とも気恥ずかしい告白になりますが、私は周囲から特別扱いされたくて仕方がない人間だったように思います。より正確に言うと、特別扱いを期待しているというよりは、その他大勢の雑魚扱いをされたくない、見下されたくない、という強い反骨精神に支配されていたように思います。

何か一味違う自分、支配的な空気に安易に迎合せず我が道を行く自分、をさりげなく示したくて、無理な背伸びをした振る舞いをし、心に嘘をついてやせ我慢を重ねていた人間だったのだと思います。それは、急造で取り繕った演技だったので、わかる人にはバレていたことでしょう。私の自己顕示欲をあからさまに無視されたり、悪意に満ちて揶揄されたりすると、明らかに不愉快な気分になっていたように思います。

その他大勢への憎悪

入れ替え可能な存在=その他大勢、という間違った考え(と今では言えます)に支配されていました。ゲームの駒や歯車の一つとして扱われることを嫌い、身分不相応な過剰な待遇を望む気持ちがなかったとは言えません。目指すのは、「換えが効かない....」「圧倒的な...」「断トツの....」といった存在として評価されること。唯一無二の存在として君臨することを、絶えず妄想していたように思います。

不純な動機であっても、目標を掲げて一生懸命に努力するのであれば、それは自分を高める為のプラスに働きます。そういうプラスの効果が全く無かったとは思わないものの、マイナスに働いたことも少なくなかった、と思います。自己評価した結果、自分の目指した域まで到達しなかったと思えた時は、謙虚に反省も出来ます。しかし、手応えを感じた自分のパフォーマンスを無視されたり、低評価を受けたりすると、不貞腐れたり、ヤル気を喪失したりすることも多かった自覚があります。自分の払った努力は相応に報われるのが当然、という傲慢で、ナイーブな価値観に囚われていたのでしょう。立川談志が、弟子の立川談春に諭したという、「現実はいつも正しい」というエピソードをもっと早く知っていたらなぁ、と思います。

入れ替え可能であることの利点

長い時間をかけて、失敗も重ねて、自分がこの世でいつでも入れ替え可能なちっぽけな人間であることを受け容れてこれたと思っています。頭では、とっくの昔に理解していたことですが、本当には腹落ちできていなかったのです。それは、無理に自我を抑え込んだ自虐とは違い、純粋に自分に割り当てられた役割を楽しむ、という境地です。

理想を言えば別の場所や役割でもよかったのになぁ、と思わないこともないですが、他人様の人生には、自分の視点からは見えていない苦労や悩みや葛藤がある筈です。結局、自分の人生しか生きられない、という単純な真実に行き着き、ならば、自分の人生を楽しみ努力をしよう、という境地までようやく辿り着けた気がしています。

入れ替え可能な存在でいい、と思えます。自分はどんな境遇に見舞われても、オンリーワンな人生を楽しんでみせる、という根拠のない自信も持てるようになってきました。そういう自分が嫌ではありません。

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