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人生は壮大な遊びと考える

意識していなくても、憂鬱な気分に襲われる日曜の夜です。週休二日生活を始めて二か月が経過しましたが、週休三日時代とは比べものにならないくらいの疲れと負担を感じるようになりました。休日を楽しもうという気力も、自分を楽しませる企画力も鈍ってきている気がしてなりません。昨年が外向的に動き回った年だとすれば、今年は内向的な時間の過ごし方が増えている気がします。

そんな憂鬱から自力で脱け出すのはなかなか難しいので、本から刺激を貰うことにしました。本日は『40歳の教科書NEXTー自分の人生をみつめなおすドラゴン桜公式副読本『16歳の教科書』番外編』(講談社2011)に収録されている、天才芸術家・横尾忠則氏(1936/6/27-)氏の項からの学びをおさらいしておくことにします。

15頁に詰め込まれた価値観

横尾忠則氏は、不思議な魅力のある人物です。私はろくに氏の作品を観たこともなければ、深く人物像を探ったこともないにも関わらず、ずっと気になる存在です。86歳になった現在も、頻繁にツイッターが更新され続けているので、益々ご健在のようです。

この15頁の短い記事で著された、人生の歩み方は大変興味深く読みました。氏の意見に完全同意できるわけではないものの、抜き書きしておきたい部分がかなりありました。

「外部」に目を向けると、どうしても結果がほしくなる。そして結果という目的ができてしまうと、すべてはそこにたどり着くための「手段」になる。さらに手段である限り、そこに自由はありません。自由や解放のない芸術なんて、おもしろいわけがないよね。

P208‐209

「仕事」というのは、依頼があって初めて生まれるもので、依頼されている以上、その主導権は他者にあるわけです。つまり、依頼された仕事を受けているうちは、他者主導の時間に生きていることになる。

P209

浮かんだ雑念は、すぐさまつぶやきに変えてポイッと捨て去る。

P211 ツイッターをやる理由の説明として

きっと日常につまらない雑念にとらわれるのも、物事を「見ている」からじゃないかな。もっと大きな視点から「眺める」という意識を持てば理解も深まるし、発想も豊かになって、どーでもいいやという図太さだって出てくる。

P213

僕は芸術の核にあるのは、アンフォンテリズム(幼児性・幼心)だと思っていますから。

P214

まあ、これだけ情報化や分業化が進んでくれば、どこかでアートが必要とされる時代がきますよ。

P216

ただ誤解してほしくないのは、人生は遊びだということ。人生という言葉は深刻に考えちゃいけない、こんなものは壮大な遊びなんだから。

P218(太字は筆者の判断)

根底に人生は遊びなんだという意識があったら、いい意味で無責任になれます。遊びと責任って、いちばん遠いところにあるものだから。

P220(太字は筆者の判断)

人生と無責任

私は、自分の人生をどう歩むか、非常にシリアスに考えてきたと認めます。無駄ばかりの人生…… 損ばかりさせられる人生…… 頑張っても報われない人生…… そんなものは嫌だ! 絶対に認めない! という強烈なエゴに、今も縛られ続けている自覚があります。そうなると、日々は雑念ばかり埋め尽くされていきます。横尾氏は、そんな雑念なんて瞬時に捨て去り、軽く飛び越えていくことを推奨します。「人生は壮大な遊び」は、何とも頼もしいことばです。

「責任」も、私の呪縛の一つです。小学生の頃の通知表に、「責任感」と「協調性」の評価項目に△を貰ったトラウマに、今も縛られ続けている気がしています。「責任感」と「協調性」は、日本の社会人では当然のように求められる資質です。関わる他者や社会から求められる責任をきっちり果たすのが大人の務めだろう、と思ってきたし、少なくとも身近な家族に対しては、真摯に責任を果たさないといけないという焦りが強くありましたので、横尾氏の指摘には正直驚きと反発がありました。

自由を優先すれば、確かにそうなる…… 羨ましい…… 
これが、本日時点の私の感想です。ただ、爽快で、是非とも採り入れていきたい姿勢でもありました。

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