『飽食の時代』と言われていた時代
今日も、やるべき事(確定申告用データ整理)が十分に出来ないまま、就寝時間が近づいて来ました。別に分刻みで動くような忙しい毎日を送っている訳でもないのに、気が付けば無為な時間が過ぎているのには些か腹立たしい思いがします。本日は、『飽食の時代』という、私が小学生だった1970年代に盛んに言われていたことばを起点にして、思ったことを文字に残しておこうと思います。
『飽食の時代』は流行語だった
今、『飽食の時代』ということばを耳にすることは滅多にありません。随分と懐かしいことばで、自分から率先して使うこともありません。数日前に松本市図書館から借り出して読み進めている、平川克美『復路の哲学 されど、語るに足る人生』(夜間飛行2014)の中の「飽食があたりまえの時代」という章で見つけ、久々に思い出したことばでした。
私には、「飽食の時代」ということばが、流行語としてメディアで連日のように使われていた頃の記憶がうっすらとあります。著者の平川氏は1950年生まれで、私とは20年近く年齢差があり、敗戦後の混乱期を経て、日本の高度成長期に青春時代を過ごされた世代です。「飽食の時代」ということばが批判的に吐露されていた頃の感覚を、私よりも色濃く記憶されていることでしょう。
飢餓を知らねば、飽食も判らない
その平川氏が書かれている
という考察は鋭いと感じました。飽食感とは、空腹感や飢餓感を実際に体験した人にしか、感じ取れない類の感覚ではないか、という意見に同意します。私のように「飽食があたりまえの時代」の経験しか持ち合わせていない人間にとっては、飽食が何たるかを、根っこのところでは理解できていないのだろうという気がします。
自分が感じている飽食
飽食の範囲を更に広く取れば、「飽食があたりまえの時代」に生きている現代人は、現代が飽食の時代であることの自覚がないまま、何らかの欠落感を抱えて生きている、という推測も成り立ちそうです。
それは、飢餓感や空腹感に苛まれた経験が極めて稀になっている時代の人間が、欠落感・空腹感を強く意識して、社会の難事に立ち向かえるのか? という疑問にぶち当たります。例えば、政治なんて非常に骨の折れる課題の連続です。私には、強い使命感を持って、難しい社会問題に取り組み続けるスタミナが、決定的に不足している気がしてなりません。
衣食住足りて、国衰える…… という皮肉な状況にもなりつつあります。変化を乗り切るのに、飢餓感に頼れない以上、今後社会や国力の衰退にどのように抗って行くのが適切なのでしょう。そんなことを考えた雨の夜でした。
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