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本当に旅好きだったのかなあ?

本日のnoteも昨日に引き続き、自己内省的な本日の思考の備忘録です。旅を考えてみます。

旅好きを疑う

私は自他共に認める旅好きということになっています。東西南北、知らない街を訪れるワクワク感を楽しみたい気持ちは、基本的には今も変わっていないし、旅の魅力や効用について聞かれたら、「旅はいい」と答えます。

ただ、COVID-19の危険が居座り続け、マスク着用、三密防止対策が恒常化しつつある中、その不便を押し退けて動き回ることが本当にいいことなのか、疑義を覚える機会が増えています。「私はそれでも旅が好きなのか?」という問いに対して素直にYesと言えないことに気付きました。

旅好きは現実逃避の一形態?

最近思うのは、私の旅好きは単に現実逃避の一形態に過ぎなかったのではないか? ということです。

時間の大半を仕事や会社に拘束される生活をしていた頃は、どんなにその後の仕事を圧迫することになっても、外出や出張には極力対処してきました。どうしても別の予定とかち合ってそのチャンスを見送らねばならない時は、その機会損失を大変残念に思っていました。

とりわけ、同行者のいない単独行動が許される出張は、日々のマンネリのオフィスワークを回避出来る最高に至福の時間でした。「給料貰って、費用を負担して貰って、あちこち行けるなんて最高!」って思っていました。

でもよく考えると、非日常感を楽しめる時間を切望していただけで、消極的・消去法的な理由で旅を楽しむ現実逃避型のタイプなのかもしれないとも思います。それが悪いことだとは思いませんが…

漂白、放浪は望んでいない

私の企画する旅は、目的地や滞在地に到着した後の行動計画は行き当たりばったりですが、出発点と回帰点、出発時期と終了時期だけはいつも明確に決めています。また、地点間の移動方法には割とこだわって考えます。

あてもなく、期間も定めず、漂い続けるような漂白や放浪と呼ばれるような旅にはあまり魅力を感じません。常に不安や緊張感と隣合わせで、スリルに溢れた体験を楽しむ余裕と度胸は私には備わっていません。安全地帯と移動手段の確保、帰れる場所があることが私の考える旅です。

旅好きだと自信を持って言っていいのかな

先日読了した、村上龍『置き去りにされる人びとーすべての男は消耗品である〈 Vol.7〉』の中の「趣味からは何も生まれない」という章で、村上氏はこう書いています。

好きという言葉は曖昧だ。ないよりもあったほうがいいという程度の「好き」から、それがなければ死んでしまうという「好き」までをカバーしている。わたしたちの社会ではどういうわけか、「程々に好き」なのが好まれるようだ。なぜかすべてが趣味的なのである。(P141)

趣味的な「好き」と「偏愛」の違いは、代替物があるかどうかだ。(P143)

趣味の「好き」は、投入されるエネルギーが限定されているので、その快楽も限定的だからだ。(P144)

旅についての私の「好き」は「偏愛」とは程遠く、趣味や娯楽の域を出るものではないことは、はっきりしています。今回の騒動のように何か外圧がかかれば簡単に諦められる程度の「程々の好き」に該当するものです。迂闊に旅好きとは言ってはいけないかなあ、と思う次第です。

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