あの人が教えてくれるもの①:小林繁
私の作っているマガジンの中に、自分が感銘を受けたことばを掘り上げる『名言が与えてくれるもの』というシリーズがあります。
今回、その人物編で『あの人が教えてくれるもの』という企画を立ち上げることを思い立ちました。第1回目は、プロ野球(NPB)の巨人、阪神で投手として活躍した小林繁氏です。
※私の所感以外の小林氏に関する情報は、Wikipediaをはじめ、各種Web記事からの収集です。
印象深い昭和の名投手のひとり
小学校3年生から6年生くらいまで、私が一番熱中していたのは野球でした。野球を巧くなりたいと思い、情報を集めて日夜研究していました。憧れの対象は専ら高校野球で、甲子園で華々しく活躍することに憧れましたが、プロ野球もよくテレビ観戦をしました。
その頃に長嶋茂雄監督率いる巨人軍のエースとして獅子奮迅の活躍をしていたのが小林繁投手です。1976-1978年と三年連続で二桁勝利を挙げ、1977年には先発完投型投手に送られる最も栄誉なタイトル、沢村賞にも輝いています。
小林氏は1952年鳥取県の生まれ。由良育英高校から社会人野球の神戸大丸に進み、1971年のドラフト6位で巨人入りしています。アマチュア時代にエリートコースを歩んだ訳ではなく、地道な努力と工夫を積み重ねてのし上がってきた選手です。
細身の身体全体を使った変則的な投球フォーム、静かに気魄を醸し出すマウンドさばき、しゅっとした個性的な顔立ちに惹かれ、ファンになりました。歌手デビューするくらい声が渋く、ダンディでカッコよかったのです。
因みに、明石家さんまさんがブレークするきっかけは、小林投手の投球フォームを真似た形態模写です。『頼れるエースはアンダースロー』のキャッチフレーズで、ガスファンヒーターのCMに起用され、一躍人気者になっていきます。
運命の『江川事件』
1978年に、小林氏の野球人生を左右するとんでもない事件が起こります。野球協約に定められた『空白の一日』の盲点を突いて、クラウンからのドラフト1位指名を拒否して浪人中だった江川卓氏が、巨人と入団契約を結んだのです。
このドラフト制度を無視し、姑息とも思えるやり方に他球団が猛反発します。騒動は野球界に止まらず、社会問題化するほどの事件に発展しました。いわゆる『江川事件』と呼ばれているものです。巨人軍と江川氏は世間からの猛烈なバッシングを浴びることになります。
詳しい事情がわからない小学生の私ですら、巨人と江川氏のやり方には強い憤りを感じました。ルールには抵触しないのかもしれませんが、目的を達成する為には腕力で捻じ曲げる手法が堂々とまかり通るのが大人の世界なのか、というショックな気持ちもありました。
江川氏の記者会見での開き直ってふてぶてしく見える態度は世の反感を買い、江川氏はしばらくはすっかりヒール役になってしまいました。この騒動が、投手としてずば抜けた才能の持ち主だった怪物・江川卓の野球人生に大きな影を落とすことになったのは、野球界全体にとっても大きな損失だったと思います。
この事件によって、自身のプロ野球選手としてのキャリアを大きく狂わされたのは小林氏も同じでした。宮崎キャンプに向かうために訪れた羽田空港から読売巨人軍関係者に連れ出され、江川氏との交換での阪神へのトレードを通告されることになります。本人は寝耳に水の話であったことでしょう。
反骨心をバネに活躍➡反動
これまで着実に実績を積み上げ、チームの勝利に貢献してきたエースの自分を放出し、プロでの実績がない、自分の願望の為には常識やルールをも踏みにじる青年の方を選択するのか…という強い失望と憤りを感じたと思うのです。
小林氏は、移籍会見での立派な態度が称賛を受けますが、プライドをひどく傷つけられたことへの憤りと怨念は強く、内心にはずっと複雑な心境が渦巻いていたようです。
阪神に移籍した1979年シーズン、小林氏はキャリア最多の22勝(最多勝利)を挙げ、自身二度目の沢村賞を獲得しています。対巨人戦には8連勝を達成し、鬱憤を晴らした格好になりました。
この活躍に世間は大喝采と称賛を送りますが、小林氏自身はこの年の自身の振る舞いについて、「トレードに出されて悔しくて、見返してやろうと自分のためだけに野球をやっていた。プロ野球選手として褒められた態度ではない」と否定的に振り返っています。
小林氏は、肩や肘の故障の影響もあり、1983年シーズンを最後に現役を引退しています。プロ生活11年、通算勝利数は139勝。引退時は、まだ31歳の若さでした。相次ぐ故障は、全身を使った投球フォームで、身体への負担が大きかったのも一因と言われます。
しかし、「江川事件」の当事者になった精神的葛藤が、小林氏の野球人生に与えた影響は少なくなかったと考えられます。江川氏も4年後の1987年に現役を引退しますが、自身の引退会見では騒動に巻き込んでしまった小林氏に対して謝罪の言葉を述べています。二人の間に、ずっとしこりは残っていたのでしょう。
自分なりの美学を貫いた人
小林氏は現役引退後、1980年代後半からは野球解説者として活躍します。独自の野球理論と華のある容姿が受けて、テレビにも度々登場しました。野球解説で使われる『見せ球』や『差し込まれる』という表現は、小林氏が考案・使用して定着したことばだとされています(Wikipediaより)
野球指導者としても、大阪近鉄バッファローズ(1997-1998、2000-2001)、韓国のSKワイバーンズ(2007)、北海道日本ハムファイターズ(2009)で投手コーチ、2008年には少年野球チーム、オールスター福井の総監督を務めています。引退後も好きな野球に関わり続けました。
スマートで物静かな印象がある一方、自分のやり方を貫く意志の強さがあり、反骨精神も旺盛な人だったようです。現役時代、ピンチで内野手がマウンドに集まってくることを嫌がっていたというエピソードがあります。
因縁のある江川氏とは、2007年に日本酒黄桜のCMで共演しています。この時に小林氏の語っていた内容が、とても率直で好きでした。
運命に翻弄された二人にしかわからないことばのやり取りが素敵です。
波瀾万丈の人生だったけど…
小林氏は、阪神淡路大震災から丁度15年目の2010年1月17日に福井県の自宅で心筋梗塞による心不全を起こし、帰らぬ人となりました。当時、日本ハムの一軍投手コーチを務めており、まだ57歳の若さでした。
今回彼の生涯を調べてみて、彼の球歴や人生は、栄光もある一方で順風満帆とは程遠く、苦しい時期も数多く経験していることを知りました。
自分ではコントロールできない出来事に翻弄され、周囲の雑音によって重荷を背負わされた人生だったのかもしれません。ただYouTubeなどに残る小林氏の表情や振る舞いからは、不思議と「楽ではないが、俺らしく人生を楽しんでいる」という清々しさも感じます。『群れない格好良さ』を漂わせた私の憧れの人のひとりです。
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