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あの人が教えてくれるもの②:アイルトン・セナ

『あの人が教えてくれるもの』の第2回はレーシング・ドライバー、アイルトン・セナを取り上げてみます。

世界中で愛されたスター・ドライバー

1980年代後半~1990年代前半は、日本でF1人気が高まっていった時期です。その理由としては、
● 1987年からフジTVがF1グランプリ(正式名称は、FIA Formula One World Championship) 全戦のテレビ中継を開始したこと、
● ホンダ・エンジンが強さを発揮し、ドライバーとして中嶋悟の全戦参戦が決定したこと、
● 鈴鹿サーキットでの日本GP開催が定番化したこと、
が考えられます。最盛期の観戦券は、かなりの高額にもかかわらず、なかなか入手が困難なプレミアチケットでした。

アイルトン・セナ(Ayrton Senna da Silva, 1960/3/21-1994/5/1)はその頃の日本で最も人気のあったドライバーでしょう。圧倒的な予選での速さ、テレビ実況を担当した古舘伊知郎氏が『音速の貴公子』と名付けた端正な容姿、エンジン・サプライヤーのホンダと二人三脚で世界トップに昇り詰めていく物語が、多くの日本人ファンの心を惹きつけたのだと思います。

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アイルトン・セナ

セナの人気は、日本だけにとどまりません。熱狂的なファンが世界中に存在し、母国ブラジルでは英雄視される存在でした。亡くなって26年経つ今でも史上最高のF1ドライバーのひとりに数えられています。

私がF1にのめりこんでいたのは、セナの死後からの数年間であり、現役時代のセナの記憶は限定的です。そんな私でも忘れられない二つの衝撃的な思い出を振り返ります。

①1992モナコGP セナ対マンセル

セナのベストレースの一つとして必ず挙がるのが、1992年第6戦のモナコGPの歴史的勝利です。1992年5月24日(私の24回目の誕生日)の深夜、私は独身寮の自分の部屋のベッドの上で、テレビ中継を食い入るように観ました。あの夜の記憶は今でも結構鮮明です。放映終了後もしばらくは興奮で眠れませんでした。

この年の前半は、ウイリアムズ・ルノーFW14Bのマシン性能が圧倒的に他チームを凌駕していて、エース・ドライバーのナイジェル・マンセル(Nigel Ernest James Mansell, CBE 1953/8/8 - )が、モナコGPまで無傷の開幕5連勝を飾っていました。

戦闘力の劣るマクラーレン・ホンダMP4/7Aに乗るセナは、自身の4連勝がかかるこのモナコGPでも、レース終盤までマンセルに大量リードを奪われて2位を走行していました。モナコマイスター、セナをもってしても、マクラーレンの劣勢は明らかだったのでした。

ところが、レース終盤の残り8周で、トップ独走中のマンセルがタイヤ交換のために予定外のピット・インをします。この間隙を縫ってセナがトップに立ち、ここから歴史に残るセナ対マンセルの壮絶なバトルの幕が開きます。

2位に落ちたマンセルは、圧倒的なマシン性能を利し、驚異的なファステストラップを叩き出しながら、セナのマシンを追走していきました。周回を重ねる毎に差はみるみる縮まっていきます。あっという間に後ろに迫られたセナは、左右にマシンを振ってオーバーテイクの隙を与えず、必死に抑え込みを図ります。

残り3周から始まるテール・トゥ・ノーズのぎりぎりのドッグファイトは圧巻で、私は声も出せずにただただ画面を凝視していました。セナも必死、マンセルも必死…… 死力を尽くした壮絶なバトルでした。

このレースの実況を担当したフジTVの三宅正治アナウンサーが、最終週のラスカスのコーナーで発した

どんなにしても抜けない、ここはモナコ、モンテカルロ。絶対に抜けない。

という名実況は、忘れられません。

辛くもマンセルの追走を凌ぎ切ってチェッカーフラッグを受けたセナのマシンから、ホンダエンジンが煙を吐きました。ブラジル国旗を掲げるセナ、涙を流し、ガッツポーズを繰り返すマクラーレンチームスタッフのぎりぎりの勝利でした。

レース後、疲れ果てて、表彰台に腰を下ろす敗者マンセルも立派でした。名手同士の渾身のパフォーマンスは、観るものの心を震わせます。

②運命の1994年イモラ

1994年5月1日、セナ最後のレースとなったサンマリノGPは、連休を利用して実家に帰省中で、風呂上りに居間でテレビ中継を観ていました。

それまで順調に首位走行中だったウイリアムズ・ルノー、セナのマシンが、レース7周目のタンブレロコーナーでコースアウトし、コンクリートウォールに激突しました。

重傷を負ったセナはヘリに乗せられて病院に緊急搬送されました。番組放送中に死亡が発表されました。ニュース速報のテロップにセナの死が流れた時は、事態が呑み込めず、呆然としたことを覚えています。

この年のサンマリノGPは、呪われたように事故が相次ぎました。初日の予選でルーベンス・バリチェロが大クラッシュして負傷、二日目には、ローランド・ラッツェンバーガーが予選アタック中の事故で死亡していました。そんな異様な状況の中で決行された決勝レースで、F1の象徴だったセナにまで悲劇が訪れるとは夢にも思いませんでした。

解説の今宮純さん、ピットレポーターの川井一仁さん、実況の三宅正治アナウンサーがうなだれ、今宮さんが涙をこらえながら、振り絞って語った「F1は続いていく訳です……」というセリフは今も忘れられません。

セナが私たちに残してくれたもの

セナの34年間の生涯は、モーターレースに捧げられた人生でした。

誰もが認める最速ドライバーだったものの、勝利の為には危険を恐れないアグレッシブなドライビング・スタイルには賛否両論があり、セナには「危険なドライバー」という評価も付き纏いました。レース中の事故を危ぶむ声は少なくなかったと言います。スキャンダルや、ライバルたちとの人間的確執も数多く知られており、完全無欠な人間ではなかったと思います。

ただ、レースを心の底から愛し、時に狂気とも思えるくらい、速さと勝利への執着を失わない純粋な姿勢が、多くのファンの心を捉え、魅了していたように思います。

私にとってセナは仰ぎ見る存在です。数少ない記憶ながら、オンタイムでセナの走りを体験できたことは幸運でした。彼から学んだのは、圧倒的な才能の持ち主が命を削って生み出す圧倒的なパフォーマンスは理屈を超えて人の心に届く、ということです。

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