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金曜日の随筆:私が飽きてしまったこと 2021/9/10

また運命を動かしていく金曜日がやって来ました。2021年のWK37、長月の弐です。本日は、以前は夢中で追い求めていたものの、今は飽きてしまっていることをリストアップしておこうと思います。自分の価値観の変化、嗜好+思考の変化に敏感になっておくことは、それなりに意味があり、生き易くなると思うので、これからも定期的にやっていこうと思います。

本日の格言・名言《2021/9/6-12》

Plant seeds of happiness and joy in the midst of your everyday life.
日々の生活の中で、幸せや喜びの種をまく 
Life is like a book of matches. To take it too seriously is ridiculous. To take it not too seriously enough is dangerous. - Ryunosuke Akutagawa, writer/Japan
人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは馬鹿馬鹿しい。しかし重大に扱わねば危険である。ー芥川龍之介 作家/日本

きっかけはCOTEN RADIO番外編

私は、会社員として長く働く中で、人生で大切だと信じ込んできた多くのものに飽きてしまったから、立ち止まって好きに過ごすための休止期間を欲したのだなあ、今にして思います。

改めてそう痛感したのは、COTEN RADIOの番外編#52(2021/9/10)で、メンバーと若新雄純氏の対談放送を聞いたことにあります。この回(特に後半)は、とても示唆に富んでいました。

内容はレビューせず、話のフリにとどめます。

飽きてしまったこと①:生産性向上

会社員時代(特にキャリアの前半)、仕事をする中で重視していたことは『生産性向上』でした。仕事(組織)の目的を明確にして、達成方法を合理的に設計し、短時間で効率よく狙った以上の結果を出していく、は私が長く追い求めたものだったように思います。

自分で評価するのはおこがましいのですが、私が所属した部署は、人員が減る傾向がありました。減った人員で業務を回すのが当たり前となり、やがて定着しました。人員減しても、仕事のやり方を円滑化して成果は落とさなかったし、業績的にはむしろプラスに引き上げてきた自負もあります。

達成すべき目的と本質を捉えて枝葉を取り除き、やるべき内容の取捨選択を行い、作業手順を根付かせるーOperational Excellenceの確立ーは、おそらくは私の得意分野です。

「生産性が高い」「業務設計ができる」「変革を行動で示し、周囲を黙らせる突破力がある」「結果を出せる」は、私がアピールできる数少ないスキルではあるものの、私個人は、この強みを活かす働き方に飽きていました。

今改めて考え直すと、
● できることをやり続けるのは面白くない… ➡愚直性・根気の減退
● 生産性向上にはキリがない… ➡達成する喜びへの不感症
● 周囲の鈍い反応… ➡注目されない、感謝されないことへの不満
があった気がします。

私にとって、数少ない「飯を食えるスキル」である生産性向上に貢献する業務は、AIが実装されたデジタルテクノロジーが最も得意とする分野です。私は、私よりも遥かに高性能・高機能を持つテクノロジーに勝てるとは思っていませんし、同じ土俵で闘いたくもありません。

飽きてしまったこと②:結果を出すこと(を考えること)

①と少し似ています。結果を出すこと、結果が出る場所を探すこと、に飽きています。社会人になると、短期の時間軸で評価されることが殆どです。その評価軸も、

● もうかるのか、もうからないのか
● 実現するのか、しないのか
● 目的があるのか、ないのか
● 意味があるのか、ないのか

が重要な要素となっている場合が多いです。何かの活動を開始する際には、目的と達成期間の説明を求められることに、わかってはいても、うんざりしていました。組織内にいたら「何となくやってみたい」では理解も、共感もされない場合が殆どです。

成熟した組織では、将来有望な結果がコミットできそうなものしか取り組ませてもらえないし、そういうものには多くの人が一枚乗っかっておこうとするので、往々にして満載のつまらない仕事が待っています。

価値観も優先順位も様々で、不特定多数の人々を納得させる論拠が求められ、説明の巧拙が都度評価されるのは、なかなかにしんどいことでした。何かの結果を出す目的で何かの活動を始める、という順番に飽きています。

飽きてしまったこと③:好きなことをやれ

「好きなことをやれ」は好きな提言でしたが、最近は、ちょっと注意して言うべきだと思うようになりました。好きなことをやる、に縛られることに飽きてもいます。「好きなことをやれ」は、自己責任を美化し、押し付ける呪いのことばにもなり得るからです。

たとえば、「面白いことをやりたい」人が集まっているようなグループで、「面白いアイデア」を出さず、「面白い行動」をしようとしないメンバーは、浮いた存在となり、肩身の狭い思いをします。

自由な空気感が気に入って、仲間や同志が欲しくて加わったグループだったのに、暗黙の決まり事に窮屈な思いをしたり、グループに貢献ができなくて自己肯定感が毀損したり、グループの中核メンバーから相手にされなくて疎外感を味わわされたり、といった経験をする可能性があります。どんなに緩い紐帯の集団にも、組織にはその場に身を置く人を縛る掟やルールや人間関係が必ず存在します。

最近では、家庭や学校のように強制的に与えられた馴染めない集団を拒否する人にも理解を示すべき、と寛容になってきている気がします。逃れられないと思っていた場所から逃げていい、という選択肢が加わることは、本人の精神的負担の軽減にはなるし、いい風潮だと思います。

その反面、その集団から離れて自分の自由意志で選んで属した集団でも馴染めないという経験をする可能性だってあります。人は、一人では生きられません。選ぶ組織、選ぶ組織に馴染めない経験が続くと、他人の責任にすることも出来ず、一層の挫折感が深まるのではないか、と危惧します。

強制はされない、𠮟責もされない、周囲は優しく見守ってくれている…… ようではあっても、「何でもいいから結果出せ」という無言の脅迫観念は、迫ってきます。「今幸せならそれでいい」「今は立ち止まっていてもいい」ということばすら、本人には重荷に感じてしまう可能性だってあります。

そんな危険を孕む「好きなことをやれ」に飽きています。


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