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『幸福三説』を駆け足で考えてみる

本日は、生半可な知識であることを承知で、明治の大作家、幸田露伴が唱えたという『幸福三説』について、駆け足で考え、自由に思いを巡らせてみたいと思います。幸福求道者として、幸福を切実に願うものとして、生きる姿勢としての『幸福三説』を手っ取り早く学んでみたいという邪な企画です。

幸福三説とは?

文豪・幸田露伴(1867/8/22-1947/7/23)が、自らの著作『努力論』の中で、幸福の秘訣として「惜福」「分福」「植福」を提唱したことから、『幸福三説』として知られているものです。私は直接露伴の著作にあたってこの考えを知った訳ではなく、渡部昇一先生(1930/10/15-2017/4/17)の著作、『人生の手引き書〜壁を乗り越える思考法〜』(扶桑社新書2017)の中で偶然出会いました。

従って私は、『幸福三説』を、渡部先生の解説で理解しています。

「惜福」とは、巡ってきた幸福をすべて使い切ってしまわないこと。
「分福」とは、巡ってきた幸福を独り占めにせず、周囲に分け与えること。
「植福」とは、後世の人々の役に立つように幸福の種を植えておくこと。

幸福な人と、そうでない人との差は、これらのことを意識して行動しているかいないかが大きい、という風に結論付けられます。

つい欲張ってしまっていた

翻って自分の態度や考え方を省みると、このような姿勢を実践できているのか、甚だ自信がありません。

あえて強く意識しないようには注意していますが、心の奥底には幸福の恩恵に預かりたい、幸せな気持ちに包まれた時間を過ごしたい、という願望を宿していることは否定できません。そして、幸福の切望が飢餓感となってしまい、自分自身のメリットばかりを考える傾向が強かったような気がしてなりません。いつでも幸福への最短ルート、苦労なきイージーウェイを探していて、急がば回れ、まずは周囲にお裾分け、といった気持ちが不足していたような気がしています。

幸福を望む気持ちは際限ないものになりがちなので、感謝の気持ちもいつしか薄れてしまいます。折角恵まれた環境に居ても、謙虚さを忘れて強欲を掻いていては、運は早々と逃げていくことになるでしょう。

幸福三説は自分への戒め

幸福三説の教えは、自分への戒めとして活用できそうです。

この3つの中で、私が比較的意識してきたのは、「植福」かもしれません。「先人の尽力の恩恵を受けてきた」という自覚はあり、良いものは受け継いで後世に伝えていきたい、大事に育てていきたい、という思いは捨てないようにしてきた自信はあります。差し当たりの私の優先順位は、「息子に幸せを」ではありますが、もう少し広い視野で、世のため、人のためを意識して働くようにしたいものです。

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