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名言が与えてくれるもの 5 :勝つ時は大差で、負ける時は僅差(小差)で

誰しも心に響く名言を持っていると思います。私にも"あの時に聞いた(目にした)あの一言でその後の人生が変わったかも‥"と思えるくらい大切にしている言葉が幾つかあります。

普段誰もが日常的に使っている何気ない言葉であっても、誰が発したのか、どのような状況で言われたのかによって、その意味や印象が大きく変わるものです。

また、受け取る側のその時の気持ちや置かれていた状況によっても、響き方が大きく違ってくるものです。

そのような前提を踏まえて、私が過去に影響を受け、生きる上で参考にしている言葉を掘り下げてみたいと思います。第5回目は、「勝つ時は大差で、負ける時は僅差(小差)で」 です。

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この言葉は、毎年師走の京都で行われる全国高校駅伝で過去6度の優勝を誇る兵庫県の報徳学園高校駅伝チームを指導し、昨年惜しくも亡くなった名伯楽、鶴谷邦弘元監督がチームのモットーに掲げていたものです。

チームが先行している時は、次の選手に1秒でも、1mでも離してタスキを渡す、逆に負けている時やライバルチームの実力が上の選手と競る時は、粘って、ひっついて最小限の差に止める。ひとりひとりのそんな小さな頑張りの積み重ねが最終的にはチームとしての強さを生み、勝利に繋がるという教えだと理解しています。

鶴谷先生によれば、前段の「勝つ時は大差で」の他チームに圧倒的に勝利することに重点がある訳ではなく、後段の「負けても小差(僅差)で」がより大切なのだそうです。

1970年代後半からじわじわと台頭してきた報徳学園の駅伝チームは、同じ兵庫県のライバル、西脇工業と切磋琢磨して共に実力を磨いてきました。報徳学園は、1981年に全国大会で初優勝し、1983-1985年には大会史上初の三連覇を達成しています。1982年は、県大会で報徳学園を破った西脇工業が優勝しているので、1981年から1985年まで、兵庫県勢は五連覇を達成しています。当時は「兵庫を制する者は全国を制す」と言われるくらい、兵庫県の男子駅伝チームのレベルは高かったのです。

報徳学園の駅伝チームの強さは、圧倒的なスターランナーこそいないものの、各区間に粒揃いのハイレベルな選手が揃い、起用された選手が任された区間をブレーキなく、実力通りに走り切る調整力の高さにありました。

特に、三連覇となった1985年の優勝は区間賞ゼロで達成したもので、報徳駅伝の真骨頂が発揮されたレースだったように思います。前年優勝時の主力選手を主要区間に配し、優勝候補筆頭で臨んだこの大会では、4区で首位に立ったものの、区間賞3つを獲得した福岡県代表、八幡大附属高校(当時の校名)に追い上げられ、最終7区の中盤で遂に両校の並走になります。勝負は西京極陸上競技場内のトラックまで持ち込まれましたが、ラストの直線で一気のスパートで振り切ってのギリギリの優勝でした。(この時のアンカー、西尾選手は私の中学の同級生です)スター選手を作らず、それぞれが求められた仕事をする。仲間のミスは全員でカバーする。まさに鶴谷先生の教えが生きた名勝負だったと思います。

最近で言えば、駅伝強豪校にのし上がった東洋大学の「その1秒を削り出せ」に通じるものがあります。長距離競争は個人種目には違いありませんが、駅伝は苦楽を共にした仲間と一本のタスキを繋いで走るチームスポーツです。走る選手のみならず、部員全員の思いが詰まったタスキには重みがあります。仲間を思いやる結束力の強さが、個人の持っている能力以上の発揮に繋がり、ギリギリの勝負では影響してきます。

スポーツの世界では、圧倒的に力の違う相手と闘うこともある訳で、負けても仕方がない場合はあります。ただ、たとえ実力差はあっても気持ちで負けないで、一矢報いてやるという心意気を喪わないことはとても重要だと感じます。

最近は、チームプレーヤーとして求められる役割を果たし、組織の達成すべき目標の為に最善を尽くすという姿勢を保つのが難しい時代になってきたと感じます。「まずは自分が‥」という考えが肯定されており、行き過ぎた自己犠牲的精神は、古臭い時代遅れの考え方になりつつあります。信頼する仲間の為に、育ててくれたチームの為に‥という、純粋な感情を、自分の利益の為に利用しようという悪意を感じることもあります。駅伝が人気なのは、そのような個人志向の風潮に対するアンチテーゼではないでしょうか。

書こうと考えていた内容から最後は少しブレてきてしまいましたが、『勝つ時は大差で、負ける時は僅差(小差)で』は、なかなかに深い言葉です。


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