石田三成の命日に
本日は、書くべきテーマは幾つかあったものの、時間不足で腰を据えたテーマを扱えそうもないので、1600年11月6日(慶長五年十月一日)が命日である、戦国時代の武将、石田三成に関する感想を残します。後で書き加える前提で、書き進めていきます。
優秀だが人望がなかったとされる人物
石田三成は、西軍の大将として臨んだ天下分け目の関ケ原の合戦で、徳川家康を首領とする東軍の軍勢に敗れ、潜んでいた草野谷(現在の滋賀県長浜市)で追っ手の田中吉政隊に捕らえられ、京都六条河原で処刑されました。41歳の生涯でした。敗軍の将の常として、何かと評判が芳しくない存在でありましたが、昨今では定説を覆す研究も進み、名誉回復と復権が進んでいる人物でもあります。
石田三成は、幼少期の「三顧の茶」のエピソードが有名です。豊臣秀吉が狩りの際に立ち寄った寺で、茶でもてなしをしたのが三成で、その利発さが秀吉に大いに気に入られ、小姓として召し抱えられたとされます。その後は、天下人へと成り上がっていく秀吉の懐刀として、異例の出世を遂げ、辣腕を奮いました。関ヶ原の合戦で勝利を収めていれば、後継者の豊臣秀頼を支えて、天下人になった可能性もありました。
頭脳明晰で、仕事は頗る優秀、真面目で実直な性格だった反面、横柄で尊大な振る舞いがみられ、同僚の仲間に嫌われ、人望がなかったという評もあります。
興味深い人物として
石田三成については、既に多くの評伝、物語が世に出ています。最近、興味深く思う歴史上の人物のひとりです。人間、石田三成を掘り下げたような作品もあります。三成が果たした役割、果たすべきだった役割、など、もう一度丁寧に調べてみたい気がしています。
今日は慌てていて、ちょっとした思い付きの投稿でした。
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