見出し画像

1秒も無駄にせずに生きる、に共感する前に知っておきたいこと

本日のnoteでは、永遠の課題であり、万人に当てはまる正解がないと思える「時間の使い方」に関してです。時間管理術についての、私の取り組みはこれまでもちょくちょく変遷しています。本日時点での整理です。

成功者の説く時間術

成功者と呼ばれる人で、時間の重要性を理解していない人はいないでしょう。人生がちょっとうまくいっていない人でも、時間管理を意識して過ごしている人は多い筈です。

成功者の説く時間管理術や実践術は、人気があります。「1日24時間、1秒たりとも無駄にせず生きる」みたいなマッチョな思想も、驚異的な努力を日々行って、結果を出している成功者がガチに語ると説得力があるものです。

ただ、彼らの説く方法論がどんなに魅力的で説得力があり、腹落ちするものであったとしても、真似をする前に「時間の特性」について、じっくりと確認しておくべきと思います。

私は「時間とは何なのか」を深く突っ込んで考える姿勢に乏しく、昔から馴染んでいる時間についての概念に盲従していたために、自分には不向きな価値観に囚われてしまっていた時期が長かったような気がしています。

便宜上の時間単位に囚われ過ぎるとしんどい

秒、分、時、日、週、月、年といった時間を表す単位は、世界中どこでも通用します。かなり絶対的で万人に強制力の強い基準です。このカレンダーに沿って世の中の人達は動いていて、自分の価値観や行動もそこから生まれる基準に適合させていく必要がある場面ばかりです。

ただ、これはあくまで客観的な基準であり、自ら持ち合わせている時間を管理する基準までこれに合わせる必要などないのではないか、と私はある時期から疑うようになりました。

誰もが従っている世間共通の時計を基準に競争すれば、才能に恵まれた腕力の強い人が有利です。正攻法で勝ち切れるだけの実力と自信がある人なら問題ありません。でも、もっと主観的に、自分に適した時間運用をしてもよいのではないか、というのが最近の私の主張です。

本当に人生をエンジョイしている人は、世間一般の常識的な時間管理術を跳び越えて、時にはマルマル無視した人生設計をして、巧みに楽しんでいると感じることが少なくありません。時間管理についての自分の「物差し」を大切にしているように見えます。

物理的に定められた時間単位を増減することは不可能でも、自分が主観的に感じる時間は、工夫次第で自在に分割したり、結合したり、前借りしたり、貯金したりできることを知りました。ある時間には、二つ以上のやるべきことを120%の力を発揮して片付け、ある時間には、何の制約も設けずにダラダラ過ごす… 工夫して捻出する生きた時間が貴重だという気がしています。

時間絶対主義は捨てたらどうだろう

「私には時間がない」

多くの人がそう思っているし、ついつい口にしがちです。自分が完全フリーで使える時間をたっぷり持っている人は少ないでしょう。会社員時代の私がそうだったように「時間持ち」は憧れの対象です。

でも、荒療治でフリー時間を捻出した私の満足度が時間に不自由だった会社員時代から劇的に向上したかというとそれは疑問です。これはまあ実行に移す前から想定していた結果です。苦痛に耐える時間を抹殺してしまうと意外と張り合いがないなあ、嫌な時間を乗り越えてやってくる何とも言えない深みのある時間が減っているなあ、と感じます。(かなり贅沢な悩みです)

時間管理を考える時には、子どもの頃から無意識で馴染んでしまった習慣や時間に関する考え方を一旦捨て去った方がよいと思います。不可能を可能にしようと真剣に頭を捻っている時、主観的にはそういう時の1時間、1分、1秒は自分がこれまで知っていた長さとは違う感じがします。

過去と現在と未来を一瞬で行ったり来たりできる人間の脳の力は、凄いなと感じます。物理的な24時間を、過去、現在、未来を考える時間にわけて、どのように配分するか考えてみると面白いと思います。重複で考えることもできそうです。私は結構ワクワクするのですが、こういうことに時間を使うのは無駄でしょうか?

サポートして頂けると大変励みになります。自分の綴る文章が少しでも読んでいただける方の日々の潤いになれば嬉しいです。