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勝ちたいというより、敗けたくない

本日は、『敗けたくない』について掘り下げて考え、対処法と戦略を考えてみたいと思います。

敗けたくない

偶然目にしたCMで、マラソン前日本記録保持者の大迫傑選手が、『勝ちたいというより、敗けたくない』という気持ちがモチベーションになって、厳しいトレーニングに打ち込める、という趣旨のことを言っていました。

敗けることが嫌い、というのは、レベルこそ違えど、私も同じです。大迫選手のように『敗けたくない』気持ちをプラスの力に変えて、自己鍛錬に活かせている自信はありませんが、『敗けたくない』『諦めたくない』 ー特に自分にー という気持ちが強くあることは自覚しています。

勝ち/敗けで考えるのは愚ですが

物事や事象を全て『勝ち/敗け』の単純な二項対立の図式で判断するのは、人生を生き辛くする原因になります。生きていく中では、何度も何度も『敗け』を実感するし、敗けている現実を突き付けられる瞬間が必ずやって来るからです。『敗け』の経験がないこと、『敗け』から学べないことはある意味不幸なことかもしれません。

実力不足、環境、運などによって『敗け』ます。『敗け』は自分で認められることもあれば、他人からの評価によって突き付けられる場合もあります。人生には『敗け』を消化し、乗り越えていくことに醍醐味があります。敗けた経験をいつまでも引きずり続けて、抜け出せないままでいると、可能性の扉がどんどん閉じていきます。

にもかかわらず、私は『勝ち/敗け』の二項対立的な価値観を未だ克服できずにいます。自分が定めた『勝ち/敗け』の判定基準に対して到達しないことを『敗け』と感じ、『敗けた』という現実は強烈な自己否定になります。

私にとって、『敗け』の状態に安住することは最大の屈辱です。そしてその屈辱感は、目に見える形の別の『勝ち』によってしかない払拭できないことを過去の経験で知っています。

敗けないことが大前提だった人生前半戦

私の人生前半戦は、『敗けないこと』を大前提に、都度自分に有利に働きそうな選択を繰り返してきました。

☑ 確実に勝てると自分なりに確証があるもの、
☑ 仮に敗けても致命傷にはならないと算盤をはじいたもの、
☑ 敗けても悔いがないと諦めのつくもの、

ではない限り、挑戦を見送ることが多かったです。敗ける経験が無条件に人を大きく、強くする訳ではない、と思っていました。

自分に備わっているであろう能力や可能性や時代状況から判断して、自分が敗けることしか想像できない分野、敗けた時にダメージが大きそうな分野への挑戦は避けてきました。

「やりたいことをやれ」という美しいことばは、十分に魅力的だったものの、鵜呑みにすることはできませんでした。人生は好きなことをやって楽しめればそれでいい、という考え方には惹かれるし、肯定もするものの、その道が自分には険しく見えて、自分の求める成功の道筋が描けない場合は、実行する勇気がありませんでした。

自分がやりたいと思うことを持続する気力が薄いことに、早くから気付いていました。思い付きや偶然触れた事象や圧倒的な体験に感化されて一時的に盛り上がっているだけの場合が殆どでした。だから折り合いをつけて現状維持を選択する方が多かったのです。惨めに『敗けないこと』は、私にとって非常に重要な要素だったのです。

勝ちたい、を少しだけ優先する

そういう時代が長かったのですが、人生後半戦では『勝ちたい』をもう少し優先しようと思います。「やりたいこと」が陳腐で、安易な思い付きで、社会評価から見て幼稚で低俗なものであっても、あまりシリアスに吟味せずに、一度は手をつけてみようと考えています。

令和は、正解を選ぶ能力ではなくて、選んだものを正解にする能力、を大事にする人が浮かばれると感じます。持ち前の『敗けたくない』という意識を捨て去る必要はないでしょう。『敗けたくない』は長年染み付いた価値観なので、私の自我の一部です。二択でなくてもいい筈です。

物事を決断する時、『勝ちたい』というポジティブワードの方を少しだけ強くなるように意識する。セオリー的には逆かもしれませんが、年齢を重ねた今の方が、挑戦し易い分野があります。人生前半戦で築いた土台の綻びや疲弊部分を改修して、新型構造に変えていく感覚です。



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